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~八十路所感~
 
土木会会長 藤本 廣 (昭和28年卒)
 

 一昨年来、私が「傘寿を過ぎた」と言うと「昭和28年の大学なら、まだ78歳前後でしょう?」と、よく言われた。ところで、私の生年月日は、戸籍上、昭和3(1928)年1月5日となっている。しかし、私が小学校に入った時に父親から聞いた話では、本当の生年月日は昭和2(1927)年12月12月30日であったが、実際に役場の戸籍係に届けたのは、縁起を担いで年が明けた昭和3年1月5日であったそうである。斯様な事は昔はよく行われていたそうである。したがって、1928年度を満年度の計算に入れると、今年2009年10月5日で私の満年齢は82歳10ヶ月となる。

 ところで、これは全く仮定上の事で意味無いが、私が、もし、旧制度の学制(小学校6年、中学校5年、高等学校3年、大学3年、計17年)の下で順調に大学を卒業したとすれば、当時、小学校には満6歳で入学していたから、大学卒業時の満年齢は23歳となり、卒業年次は昭和26(1951)年となっていた筈である。しかし、現実には私は、昭和28年3月10日に新制度第一回の宮崎大学工学部土木工学科卒業生となり、九大大学院を経て宮崎大学に文部教官助手として採用されたのは昭和32年満29歳の年齢になってであった。これには、私の育った家庭環境や第二次世界大戦以降の社会環境の影響、そして私自身の健康問題を抜きにしては説明出来ない事が多い。ここでは家庭環境の事は扨置いて、私の大学卒業年次が新制度の昭和28年卒業となった事実は次の事情に因る。即ち、第二次世界大戦中の海軍甲種飛行予科練習生として軍歴1年半、戦後の上級学校進学までの浪人1年半、昭和22年に入学した宮崎県工業専門学校土木科での亜急性心筋炎という病気に因る休学1年、昭和24年に始まった新制宮崎大学工学部土木工学科への転入学後、昭和28年に発足した新制度の九州大学大学院修士課程土木工学専攻に入学した1年後の結核に因る病気休学2年、これらの6年に及ぶ休学に因り、私が宮崎大学に文部教官として就職できたのは前述のとおり昭和32年4月満29歳になってからであった。

 この6年に及ぶ休学が、当時の私の家族にかけた迷惑以外に私にとって後悔の因となることは無かったし、また、今でも全く後悔していない。尤も、今更そのような事を後悔したとしても始まらない事は明白である。唯、私がそれに就けても思うことは、私の土木工学という専門領域以外の社会科学や社会現象に対する諸々の興味が、所謂“趣味”として現在に至るまで続いているという点に於いて、この6年間は、私にとって誠に貴重な時間であったという事を、ここでは特筆しておきたい。その上でこの事が、また、“土木”という本質的に文明的な技術・工学の領域に対する、文化性の導入という現代社会の要請に対する私の対応の基調にもなっているという事も挙げておきたい。

 終わりに、八十路に入って3年目の私にとって、この伝統ある宮崎大学土木会会長を続ける事が、身体的機能の点から困難になったという認識ある事を付記し、例によって駄句一句を披露して擱筆させて頂くこととする。

 
 “サルスベリ 百日の紅すでに消ゆ”     - 廣 -

 (平成22年10月10日)
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