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解説

   大阪女学院を卒業された会員の方々のページです。
学生時代の思い出、学校のこと今のこと、題材は自由です。ホームページ委員会で検討の上掲載させて頂きます。まずは原稿をお送り下さい。お待ちしております。

ハンドベルの響きとともにつながった同窓の喜び

S43年卒  田中   美知子

 第14回ハンドベル世界大会が8月3(火)〜7日(土)、中之島の大阪国際会議場で開催されました。テーマは"Echoes for Peace"(平和の響き)  日本各地はもとより、世界12カ国からハンドベル愛好家1200名が集まり、平和を願い、祈りと讃美の楽器といわれるハンドベルの演奏に心を一つにしました。今回の大会には私は「大阪女学院ヘール会ハンドベルクワイア」としてヘール会のお母様方12名とご一緒に参加しました。これは大阪女学院中学・高校に通う保護者によって「子どもたちの在学中、保護者としての大阪女学院時代を過ごしましょう」と1990年に結成され、毎週練習をしています。
 ハンドベルは教会から生まれた楽器の性格上、大会といっても1位、2位を決めるコンクールではなく、それぞれが聞き合い、学び合い、交流するということが第一の目的とされています。大会初日には日本ハンドベル連盟理事長の日野原重明氏の「日本人の生き方と平和」と題した講演会があり、その夜には1200名がバスに乗り込み、神戸花鳥園において「ファン・ナイト」と題してバイキングによる夕食会と小さなプレゼント交換をしてご挨拶を交わしました。日本語、英語、韓国語・・・と様々な国の言葉での交流でした。
 2日目からは、最終日に行われる"ファイナルコンサート"に向けての練習開始です。各国を代表する指揮者の選曲した7曲を3カ国語の通訳のもとにすすめられていきます。
 ある日の午後です。順番がきて私たちはスコットランド民謡「アニーローリー」を演奏しました。・・・その演奏を終えたときです・・・
 一人のご婦人がわたしのところにとんできてくださいました。「私、大阪女学院の卒業生なんです。大阪女学院と聞いて嬉しくなって・・」と頬を赤らめ、満面の笑みを浮かべて私にご挨拶下さるのです。その一言で一瞬にもう心は同窓生でつながりました。そのご婦人は少し小柄で、可愛く、明るくて若々しくて素敵な方で、"西東京ハンドベルの会"に属しておられるS30年卒の岩田牧子さんでした。
 広島に原爆投下された8月6日(金)の朝には、みなで平和を祈り願う礼拝の時をもちました。また、プログラムの最後には全員で千羽鶴を折り、大会後に訪れた広島の平和記念公園での演奏ツアーチームに託しました。言葉や文化を超えた友情がハーモニーとなって響き合い、平和の響き・祈りとなって、人々の心に届いたことでしょう。
 2年前、アメリカでの世界大会では同窓生の藤村(市川)滋子さんにお会いしました。お目にかかったこともない先輩が"私も大阪女学院の卒業生よ"と話して下さるそのお顔にはお互いにその"誇りと喜び"が光り放つ瞬間でした。ベルの響きとともにつながった思いがけない出会いと喜びの時でした。2年後イギリスのリバプールで開催される大会で、また次の出会いが楽しみです。

S41年卒、中野啓子姉の追悼会

S41年卒  島袋   洋子

 この春オープンしたウヰルミナハウスにて6月23日(水)追悼会をいたしました。
 去る3月25日、中野啓子姉が突然天に召され、植下先生、吉住先生初め同窓生数十人が集い一部は礼拝、平田和子教育主事(吐田郷教会)の奨励、聖書は「マルコによる福音書4章30−32節」一粒のからし種の譬え話を引用し、中野姉を小さなからし種に譬え、信仰者としてよき働きをされたと話され、彼女の愛唱讃美歌U−26を賛美しました。生前、彼女は教会での働きは元より、日キ教団、大阪教区でもその力を注がれ信仰を全うされ、その源はこの大阪女学院で培われたものであり、また教会での導きによります。十分に働かれ神様はよしとされたのでしょうか。いろんな方にたくさん良い感化を残し、あっという間に召されました。後に続く者として記憶したく、女学院の信仰を受け継ぎたいと思います。
このウヰルミナハウスを今後、皆さん覚えてお使いになられますよう願いますとともに、その中の同窓会委員の方々のご尽力に感謝したいと思います。

「あの日 あの時」

S28年卒  佐藤   和子

 昭和二十六年八月十五日終戦、広島県三原市田野浦国民学校五年生夏休みでした。三学期より大阪に帰阪、昭和二十三年国民学校を卒業し、大阪女学院中学部に入学する。  上町台地の焼野原の高台に校舎があり、平屋建ての教室が始まりです。市電を二度乗り換え、大阪城、大阪府庁舎、NHK前を通り抜け、上本町二丁目で降り、焼野原の街中を一目散に学院に通いました。
 終戦後の荒廃した時代に導かれるごとく、大阪女学院中学での学業が始まり、今振り返って不思議な縁だったと思います。敗戦直後でキリストの教え、外国人の先生・・全く考えたこともない世界でした。中学、高校と六年間、澤山の先生方、友達に接し、「神の教え」と「讃美歌」に溶け込み、学校もどんどん復興し、外国からの援助で立派な校舎も建ちました。激動の大変な戦後の六年間在学出来ましたことは大阪女学院に在学していたからこそと感謝いたしております。
 木下先生から教わり、新聞紙を張り合わせて指人形を作り人形劇をして教会にも行きました。池田のご自宅にも澤山でお尋ねし、奥様にはお世話になり、忘れられない思い出です。暖かい絆を頂いて勉強出来ていました。
 ソフトボールの練習、なげ越し、階段の木の茂みの下で見学出来る運動場、ほんとうになつかしいうれしい学院の思い出。
授業がすむと、中之島の中央公会堂と並ぶ市立図書館で本の無い時代で図書館通いをして試験勉強したり、本を読んだり、国民学校を出たばかりの私にとっては、すごい体験ばかりでした。中学は思い切りいっぱいの世界を経験出来て、昭和二十四年の修学旅行も余りいけない所へと、お米持参で、島根の宍道湖、日御碕の灯台、松江城、出雲大社、小泉八雲の住居などなど、ことばの違い、宍道湖に沈む夕陽の何ともいえない大きな姿、日本海の日御碕灯台に向けて断崖絶壁の水戸をバスが走り抜けた風景、素晴らしい思い出。素晴らしい学院生活でした。
高校二年頃から、家の状態が苦しくしんどく、兄弟も多く、長女の私は母の苦労を見て、家の手伝いをして、朝早く夜も店の手伝いをして学院に通いました。この頃から授業が終わると一目散に家に帰る日々で、友達との交流が出来なくなり、授業料も大変で、遅れ遅れの授業料を親友のお母様が納入して下さったり、退学も考えたこともありました。でも母の応援もあって卒業を考えることができ、遠足も修学旅行もいけませんでしたが、昭和二十八年、卒業を迎え、忘れられない六年間、いろいろな絆の出来た六年間が私の人生の苦労の支えでもありました。
一所懸命の人生の中でうれしい事も起こりました。卒業後に娘をすれてバザーに参加して「お母さんの学校だよ」と話せたことです。娘は自分の進路をしっかり考え、勉強が良く出来て、進路を心配したことはありません。中学、公立高校、大学へと思っておりました。これが私の思い込みでしかなく、中学の担任から「今、娘さんが何を思ってるか解ってますか」とのお話で、自分たちが余りにも思いやりがない思い込みの中にいたことを知りました。「お母さんの卒業した学校に行きたい」と言ってくれました。 大阪女学院での生活を思い起こし、娘にも大切な心の絆を持って貰えることを喜びました。娘が在学して、私も親として学院意参加できる幸、学院を身近に感じられました。でも、思い切り十分な学院生活をさせてやれなかったと今思い起こし、娘に謝りたい気持ちです。ただいま孫娘たちは大学、高校生です。日々流れる如くの人生です。娘と一緒に大阪女学院お百二十五周年を迎えることが出来ます。
 学院の益々のご発展を祈念し、大阪女学院の卒業生として百二十五周年記念行事に出席し、「神様のみ業」と歴史を感じたいと思います。
只今は大阪の緑化活動にグリーンコーディネーターとして地域の環境、花緑水にすれていろいろとボランティアに参加しています。「水と大阪 二〇〇九」大阪大好き「大阪ってええとこいっぱいある」
これからの人生を若い人たちと触れ合って孫たちのすみよい大阪作りに参画して行きたいと願う。
 また、わが母校大阪女学院は「まちにみどりを」「大阪まちなみ賞」受賞。大阪女学院は戦後の復旧から半世紀、校内の豊かな緑は地域の緑の景観づくりに大いに貢献しています。この学院の姿を、町々にあふれることを願って百二十五周年を迎えたいと切に念じます。
 「ありがとうございました」

天の川の下の家

S35年卒  萬里子   シェイファー(段中萬里子)

 光陰矢の如し。1989年48才で渡米し、1990年に再婚して早や19年も過ぎようとしています。その間、主人の仕事の都合でカリフォルニアの家を売り、サンディエゴの海の見える丘の上の一軒屋を借りて快適な暮らしを楽しんでおりました。その間8匹もの子猫が家族に加わりましたが、家が売れてしまい、引越ししなくてはならなくなりました。8匹ものネコをかかえていては借家は無理、買いたい家も見つからず、自分たちで家を建てようと思いいたりました。
 1999年にこの南ユタ州カナラヴィルの州貫フリーウェイを見下ろす山麓に土地を見つけました。家の基礎工事は業者に頼みましたが、その他全ての内装工事、電気の配線(主人は電気技師)からタイル張りに至るまで、全て自分たちで致しました。
 その間、猫がいても良いとの事で、学生時代の親友(旧姓荒木淳子さん)がお持ちの借家に住まわせていただくことができ、本当に有り難く、今でも感謝しております。
 そこで、妹が私たちの留守の間、猫たちの世話をしてくれました。今の家の隣の土地に妹の家を業者に建ててもらい、2003年、全員でその家に引っ越しました。その間10年、母は,アメリカと日本、半々の生活を楽しんでおりましたが、2003年アメリカに移住して参りました。ようやく2008年3月、私たちの家が80%出来上がりましたので、3月に母(92歳)、主人、5匹の猫(妹は3匹)と引っ越すことができました。
 主人は今は月の内、2週間はサンディエゴの会社の仕事をし、帰ってきて休むまもなく家作りの完成にはげみます。本当に頭の下がる思いで、感謝しております。今は、年に1、2度東京から会いにきてくれる私の娘の部屋をせっせと仕上げてくれております。
 朝夕、野生の鹿、うさぎ、りす果ては立派な七面鳥などたくさん、えさをもらいにやってきますし、夜、広いデッキから空を見上げると、それこそ南北に大きい天の川が流れ、満天の星の輝きは都会で見るのとはまるで輝きが違います。自然一杯の中、充足した生活が送れますのも、沢山の方々のご協力あってのことと、本当に感謝しております。
 尚、大阪女学院のますますのご発展、心からお祈り申し上げます。

海を越えて、世代を超えて…

S43年卒  田中   美知子(奈良)

8月初旬、S30年卒のマイアミ在住のShigeko Ichikawa-Fujimura藤村(市川)滋子さんご夫妻をお訪ねする機会が与えられました。それはハンドベル世界大会が、アメリカはフロリダ州オーランドで開催されたときのことです。私は同級生で、国内外のベル活動を共にしている橋本るつ子さん(旧姓榎本・中一のみ在学)と大会に参加しました。そこには、世界中のベル愛好家、約1000人が集まり5日間、各国の指揮者のもと演奏を楽しみ、学び、交流するというプログラムです。
藤村さんご夫妻は私たちの訪問をとても歓迎してくださり、高速で4時間も離れたところから車で大会会場へお迎えに来てくださり、ソロコンサート・ファイナルコンサートにも観客として演奏を楽しんでくださいました。
大会を終え、さぁ〜マイアミへ…。車に乗るや否や、おしゃべりの始まりです。藤村さんと橋本さんはご親戚ということもあり、まずそのルーツを辿っての会話は、止まることがありませんでした。生物化学者としてご活躍のミスターロバート藤村さんはハンドル片手に、その合間合間に大きなお声で大笑いを。もう弾けそうな車内でした。夜12時前、お宅へ到着。…先ずはベッドに。
翌朝、窓の外を見ると何とすばらしいこと。壁一面が窓ガラス。お庭にはジャグジー付のプール、大きな椰子の木、バナナ、ココナッツ、マンゴー、ブーゲンビリア等南国の香り溢れる中に私たちは囲まれていました。
限られた時間の中で、あれもこれもしたい、話したい、伝えたい、聞きたい、見たい、見せたいと…。時間を忘れてお交わりいたしました。
藤村さんは、大阪女学院が戦争で、焼け野原になった時、瓦礫を一枚一枚拾い集めたという時代を女学院で過ごされました。そして、現在のヘールチャペルの床下に、みんなでその瓦礫を引き詰める作業に参加しました。やがてヘールチャペルが完成し、最初の礼拝をされた年代でもあるそうです。今も多くの同窓生の皆さまと交流をもたれ、同窓生コーラスの様子もよくご存知で、そのCDも3枚も送られていました。現在藤村さんは、女学院卒業後、聖和で学ばれたこともあり、マイアミ日本人学校補習校(全世界にある、日本にいずれ帰国する子どもたちが、帰っても日本で困らないようにするクラス)で幼稚園のクラスを担当されています。またKUメソジスト教会にも属され、日曜礼拝の後には、私たち二人にハンドベル演奏の機会を与えてくださいました。日本を離れてもう45年の歳月が過ぎたそうです。しかし、日本の多くの同窓生や、また、そのお働きを通じて今もなお、お写真をお見せすると「あ!滋ちゃん!!」と呼ばれて慕われておられることに藤村さんのお人柄を感じさせられました。「私は大阪女学院で学んだことがすべてここでの生活の支えとなり本当に感謝しています」と満面の笑みの内に語られていたことが印象的でした。すばらしい先輩と過ごしたすばらしい時間でした。

クロアチア便り

2008年8月 ザグレブにて
ヴァイオリニスト  清水   節子

   最近クロアチアの観光が注目され、9月には昨年に続いて日本から2回目の直行便も飛ぶ程の人気である。それでも「何処に?」と問われることが多い。アドレア海の東側、イタリアの対岸、ウィーンから南に約500km、ヨーロッパの中心にクロアチアがある。2002年初めてクロアチアを訪れて以来、音楽を通じた文化交流の仕事で何度がクロアチアを訪問した。そうしているうちにここザグレブに愛犬の「ジェイ」と住み着いてしまった。
   クロアチアの人口は450万人、国際都市としての機能を備えた文化国家としてEUに加盟する日も近い。一般に親日感情は良いほうで、トヨタ、ヤマハは何処でも高く評価されている。首都周辺では新興住宅の開発が進み、電気製品や流行のファッション、健康志向のインスタント食品等の広告が消費を刺激している。その一方独立後の経済主義から落ちこぼれた人々が路上で物乞いをする姿も見られる。手や足の切断部を露出した人、赤ん坊を抱いて手を差し出す女性。エプロンを広げて座り頭を上下している老女。通り過ぎるには忍びない光景である。戦争は終わり平和を勝ち取ったもののその代価は高く、人々の生活は決して楽ではない。美しい公園や、文化遺跡があり、世界中から観光客が訪れるザグレブの公園内にも職を無くした人が佇んでいる。
   因みにここの消費税は22%である。物価は日本より20%程低いが、平均給与は約3分の1である。それでも此処で暮らす魅力は数多くある。それは人々が物質文化から離れて暮らしているからであろうか。高級品や最新の電気製品等への欲求を抑えつつも人々は豊かな生活を営んでいる。午後3時頃から「ランチ(ビッグなフルコース)」を楽しみ、夕方にはコンサートやコーヒーショップに屯している。夏は2ヶ月位「シーサイド(行かないのはとても貧しい人?)」で休暇を過ごす。それに比べて先進国の人々は「人工物」の暮らしにどっぷり浸かっているうちに目標を見失ってしまったのではないかと思う。彼らは心の置き場所を探して彷徨っているように見える。
   このような日本を離れて暮らす外国生活では体裁や柵を気にすることが少ない。それを機にひとつひとつ不要な物を削ぎ落としてみた。そうすると心が神様と触れる感触があった。その実感をヴァイオリンの音で再現してみようとしているうちに時間を空間を越えた世界が広がってきた。その時に出会ったのがここに千年伝わる「クロアチア聖歌」であった。「主が生きておられる。」人に与えられた「魂」はそれを感じる。そのように人は創られた。この歌は「神への畏敬」を人々に歌い継いでいる。
   今年6月に始まったコンサートツアーではクロアチア聖歌とともに現地の伝統文化紹介DVDも上映した。音楽礼拝や病院訪問等でも「不思議な親しみを感じる、癒しの音楽」との感想であった。文化の違いは人々の感性を大いに刺激しているようである。
   追記:クロアチアでは「何語で?」と聞かれるが、クロアチア語は20語位の片言でほとんど「英語」で話をしている。勉強しなかった学生時代を後悔しつつ、何とか日常生活に困らないのは「怖い!怖い!鬼のような英語の先生」のおかげと感謝している毎日である。

「空襲で逝った友」

S22卒  秦   喜久子(岡野)

皆さん 今は平和な大阪女学院ですが、六十三年前、空襲で亡くなった同窓生が居た事を御存知でしょうか。その人が無事卒業していたら昭和二十二年、私と同じ卒業です。
昭和二十年三月十三日夜から翌未明にかけて、火の海と化した大正区泉尾の防空壕から逃げ出すことが出来ず、父上兄上と壕の中で最期を共にされました。母上と弟妹さんは疎開しておられ、助かりました。
松田さんと私は、入学時から前と後ろの席で、すぐ親しくなりました。二人は絵が好きで、中原淳一の絵を真似てよく描いたものです。絵の時間も、図画室に隣接した小部屋で、油絵を習っていました。松田さんは目がきれいで、鼻筋も通り、何かおシャレで私の憧れの人でした。
二年生になって、上級生気取りで新入生を見に行き、中庭でブランコに興ずる美しい少女を見つけ、親しくなりたくて「ハイキングに行きましょう」と誘いました。二年生七人、一年生三人で六甲奥の池へ行きました。昭和十八年、まだ戦争の深刻さはそれ程私達に及んで居らず、それぞれの家庭から持ち寄った食糧で、池の畔でパーティが催されました。二年生の一番楽しい思い出です。翌昭和十九年、三年生の夏から四年生の夏終戦になる迄の一年間、学徒動員となり、軍需工場で働きました。私は工場の寮へ入っていて、工場は戦災に遭いませんでしたが、大空襲のため、翌日十四日の朝になっても黒い雲が垂れ込め、なかなか夜が明けません。定刻、工場へ出勤すると、家から通ってくる人の姿はなく、十時頃少しずつ出勤してくる人の顔は、皆ずず黒くて汚いのです。電車も通っておらず、歩いて来たとの事。その内「松田さん死んだんやてー。」と悲壮な声がひびきました。私は茫然としてその声をきいていました。
後できいたのですが、どの遺体も黒こげの中、松田さん三人の遺体は生きている様にきれいだったそうです。
扨、松田さんが亡くなられて半月後の四月、妹の相子さんが女学院へ入学されました。勿論学園に私は居ません。大分後になってあの戦争中に「どうして入学する気になった」か知りたくて聞きましたら「母がお姉ちゃんのセーラー服があるから行きなさい。」と云われたとのこと。そうだったのか、と万感こもごも。それにしても同時に夫と長男長女を失い、家も焼かれてしまった母上の心境とは…?混乱と悲しみの中、半月後、次女を長女の行っていた学校へ入学させたその心境とは…?私も年を重ねてきて思うことしきりです。それにしても、妹の相子さんと会って、いっぱいお話がしたいものと、居所を一所懸命探しました(お互い戦後を引きずりながらの生活で、家を転々とする内、長い間解らずに過ごしていました。)がなかなか解りません。名簿を見ても載っていません。高校どころか、中学卒業の欄にも出てなくて、同窓生の筈の方にきいてみても皆知らない。中学校の時には確か居た筈だと云われるのです。私も今年七十九才、いつどんな事があっても可笑しくない。もう時間がないのでは…と思いつつ一所懸命祈っていたその時、ベッドの中でした。「松田繁雄」という漢字もハッキリと、弟さんの名が浮かんだのです。お父さん、お母さん、お兄さんの名も知りませんのに。早速電話局に尋ねたら堺と吹田に同姓同名の人が居ると教えられ、先ず堺へかけてみたら、何と出てきた人が、妹の八木(結婚して八木となった)相子さんだったのです。驚きと共に言葉にならないものが込み上げてきました。早速、お会いしたいと願いましたが…まだその時は来ていません。現在相子さんは、御主人を亡くされ、心臓病の弟さんを看ながら、自らもC型肝炎を病う身で、近くに息子さん夫婦に支えられ乍ら暮らしているとの事。その後文通や電話で交わりつつ早一年以上経ってしまいましたが、やっと今年十月会える約束が出来ました。
戦後焼跡の学園に早急に建てられたバラックのヒュッテを思い出します。故西村次郎先生が「夢のヒュッテ」と称してここは何をしてもよいみんなの自由な部屋だと云われ、一番初めに松田久恵さんの追悼会を持ったのでした。私は追悼文を読みながら涙が止まりませんでした。終

「五厘銅貨物語」濱田苔花著を読んで

S30卒  平木   貴美子

   同窓会総会に出席して 創立125周年を記念して出版された「五厘銅貨物語」をいただき 興味深く一気に読みました。

   明治時代のまだ女性が職業をもつことが希有な封建的な社会で 女性記者第1号として鹿児島で活躍された大先輩がおられたことに まず感動しました。

   いつか英語教材で読んだ「コインの冒険」に似て 小さな「五厘銭」を通して 様々な人の実生活が描かれています。先ずは古き良い日本の家庭を思い出させる円満な家族の奥さんの手に渡り 次はそれに反して 裕福でも喧嘩の絶えない夫婦、貧しい少年が 継母にいじめられ、病気の父を助けるため花売りをする。その花を買う乙女達の寄宿舎生活や悩み、女学校の様子、これは当時のウイルミナ女学校での作者の体験によると思われます。

   女性の人権問題や貧富の格差社会などを 声高に批判するのでなく 五厘銭の立場からやさしく しっかりと訴えておられる。ウイルミナ女学校で養われた神を愛し 人を大切にするキリスト教の精神が作者の生き方であり、このような作品を生み出したことに またまた感動しました。

   話の締めくくりもユーモアがあっておもしろい。車夫の手に渡り だんご屋で代金を払うとき転がり 畳の目に落ち 大掃除の日までお休みという。

   このような先輩たちを125年の歴史の中で 社会に送り出し 移り変わる時代の中でも創立者の精神を貫かれている母校を 誇りに思い 同窓生のひとりであることを感謝しています。

「想いだすことども」

S19卒  石井   晶子

   昭和16年12月8日未明、 ラジオのニュースは日本の米英両国への宣戦布告を伝え、私は「とうとう、」と一種、諦観ともつかぬ想いにとらわれた。大正15年生れの私は激動の昭和の時代をその歴史とともに生きてきた。小学生の頃は東京に居たが、昭和14年2月、キリスト教の牧師だった父が、大阪天王寺協会に招聘され、私はウィルミナ女学校に入学した。当時ウィルミナの教頭西村次郎先生(後の名誉院長先生で、西村耕院長先生の御父君)が天王寺教会の長老をされていて父の天王寺教会招待の為、東京に耒られた折、私が入学試験を控えて「若し試験の成績が悪くても、必ず入学させるから」との話であった。と云うのは、入学試験科目は全国何処でも、国語と算数であったのが、昭和14年度の大阪府?は国史一本槍であったからだ。この事は次第に軍国主義に移行して行った当時の世相を端的に表している。幸い私はお情けでなく、そこそこの成績で入学出来たのであるが・・・・・・・。昭和15年9月12日独伊軍事同盟が締結され、日本は対米関係を悪化させ冒頭の日米英開戦となって、校名も大阪女学院と改められた。当局のキリスト教主義の学校に対する弾圧も強くなり、当時学校にはH・ヘール、H・パーマー、A・G・グループの三人の女の先生とボーベンカクと云う男の先生が居られたが開戦と同時に外人館に軟禁されて外出できず、翌17年に日米の交換船で帰国された。グループ先生等あらぬスパイの疑いをかけられ、苛烈な取調べを受け帰国も遅れられた。帰国する三人を見送ったのは私と親友の吉田豊さんー故阪田寛夫氏夫人(寛夫氏は故阪田京同窓会長の御次男で童謡「サッチャン」の作詞者)と吉岡弥生先生、ボーベンカク先生のお世話をしていてクリちゃんと呼んでいた女の子の四人だけ。大阪駅のプラットフォームには憲兵が見張っていて話する事も出来ず、列車の窓から目だけで「さよなら」の挨拶、クリちゃんは、デッキに立ったボーベンカク先生を涙をいっぱい溜めた目でじっと見つめるだけの悲しい別れだった。
   当時の学園はまだ戦災に遭う前。現在の図書館(以前はプールだった)のある所が校庭で、榎が生い茂っている石段が観客席、バレー、バスケットの試合の時はそこから声援がとんだ。その両側、木造のパーラーと呼んでいた洋館の校舎との間に緑濃い植込み、その間を縫ってコンクリートの小径が続き私達は休み時間になるとローラースケートを楽しんだ。中央には森田金之助先生お手造りの校章の星彩をした美しいタイルのモザイクのスペースがあり、ベンチ等も置いてあって当時からハイカラーな校庭であった。
   だが戦局は日増しに激しく、食料衣料は配給切符制になり裁縫の時間も兵隊さんの軍服を作る事に追われ、分厚い固い布地にミシンをかけるときにも針が折れぬ様せねばならなかった。針ももう売っていないのだ。遂に学徒総動員令が発令、学業はお預けで北大阪の乾電池工場に勤労動員された。   当時は手榴弾に使う乾電池も手造りである。   私は五年生全体の小隊長も命じられた。単一の乾電池の本体の上部に白い液体を注いで固める。ー冷たい水の中に手を入れての作業。又次の部屋ではその上に金色の細い針金で起爆装置を繋ぐ導火線をハンダ付けしてゆく。皆流れ作業でやっている。勤労奉仕も今日で最後と云う日、工場の皆さん(と云っても年輩の工場長の他は女子の工員さんが殆んどだが)の前で生徒を代表してお礼の言葉を述べる事になり「いつもお昼に頂く、切干大根の、おいしかった事、忘れません」と云ったら場内大爆笑だった。   お椀一杯の切干大根の煮たのが毎日でもそれが御馳走だった。昭和19年春、私達は卒業し各々の道に。私は女子挺身隊員として大阪師団兵器部に勤めた。それから一年後、古き善き時代のウィルミナの校舎は、戦災で焼失したのである。