吉満 肇 様(昭和16年 熊本高等工業学校卒) ご寄稿

2018年10月29日(月)
私は昭和16年12月、太平洋戦争(当時は大東亜戦争と呼んでいた)開戦と同時に熊本工業学校、卒、翌年2月1日、西武22部隊(熊本)に入隊した第1次学徒出陣組です。すぐ中支予備士官学校(現在の中国、南京)、ここで俄か将校にしたてられ、以後、各地転戦、終戦は4000キロ南方のニューギニャの昼なお暗いジャングルの中でした。

昭和20年8月15日、終戦、
戦争が終わっても帰る船がなく、やっと帰国できたのは翌年、昭和21年7月14日和歌山県、田辺港でした。ニューギニャの戦死者は2万人以上、その大部分は餓死、戦病死と言われているので、私たちは、まさに死に損ないの敗残兵、悲痛な思いの帰国でした。 
戦後、知人の紹介でモービル石油(世界最大の石油会社)に入社、昭和55年、同社を定年退職しました。(3年間学んだ土木業務とは関係の少ない会社でした)
 
蘇遙会の皆さんの各地の楽しい素晴らしい活躍、毎年、楽しく拝見しています…
見ていると自分も一緒に活躍しているようで、旅行しているようで楽しくなり新しい元気が湧いてきます、お忙しいのに、こんな年寄りにまで、何時までも、このような楽しいお便りをいただき、感謝、感謝です、ありがとうございます。
 
しかし、私は、もう98歳、80年も遠い昔、熊本時代の懐かしい学友たちの音信がなくなりました、また、先の戦争でニューギニャで一緒に苦闘した戦友たちの音信もなくなり大変寂しくなってきました、しかし、先日、9月17日、こちらの敬老会(役80名参加)で別紙のようなうれしい白寿記念状をもらい、また、新しい歓び、元気が湧いてきました。
即ち、支配人が、突然、私を呼び、益々お元気な白寿の吉満さんでーすと、みんなに私を紹介されたので、びっくり、場内から一斉に拍手、嬉しい悲鳴でした。楽しい敬老祝賀会でした。(このような昔の諺は、昔の数え年で祝うそうです)、
 
私は足腰が弱り歩行困難、それに年々物忘れがひどくなってきましたので惚け防止に…と、白黒の石を並べたり、パソコンをいじったりして、なんとか頑張っています、よろしくお願いします。ここでも私が最高齢のようで吉満先輩と呼ばれ恐縮しています。
 
蘇遙会の益々の発展、躍進、何時も横浜から応援しています。
 
平成30年10月10日 吉満 肇
 
(以上原文通り)
 
 

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