令和5年7月11日(火)~12日(水)にかけて、昭和46年土木卒業を中心にした「熊大土木46年会」を4年ぶりに開催しました。今回は初めて大分・別府で大分在住の津末君が計画してくれました。11日午前11時30分にJR別府駅に集合しました。集合予定の荒木君は九州横断自動車道(大分道)が前日の豪雨で朝倉IC付近が被災のため、通行止めで遠回りを余儀なくされ、間に合わず、夕方からの参加になりました。別府駅に集合した8名(河野(熊本)、庄司(関東)、菅原(関東)、津末(大分)、春野(福岡)、宮崎(広島)、由留部(熊本)、北園(熊本))で車に乗り合わせて、別府鉄輪温泉にある地獄蒸し工房に移動し、昼食に地獄蒸しを賞味しました。津末君が準備してくれた大量の食材に舌鼓を打ち、満腹になりました。昼食後、別府温泉保養ランドに移動し、泥湯体験をしました。露天風呂もありましたが、少々熱くてゆっくり入れませんでしたが、内湯で入り直し、泥湯を満喫しました。
                
昼食の地獄蒸し(別府鉄輪温泉)

 その後、別府から大分市内に移動し宿泊するホテルで一休みした後、午後5時30分に遅れた福岡の荒木君と関東からの笹谷君、鹿児島からの矢元君と合流し、合計11名で大分市内の日本料理店の「竜馬」で午後6時から宴会を始めました。大分ということでみんなが期待していた「ふぐ刺し」「関サバ」「関あじ」の御相伴にあずかりました。また、お酒は「ひれ酒」も味見出来ました。宴たけなわになった所で、参加者の近況報告を行いました。最後に不参加者の近況をメモしたものを北園から報告し、都合の付かなかった者、体調不良の者を紹介しました。そして、次回の開催地を皆さんの便利がよい福岡に決め、アッという間に楽しい2時間が過ぎてしまいました。その後、宿泊するホテルのすぐ近くのスナックで2次会になりました。みんなでカラオケを熱唱し楽しんだ後、午後11時頃にホテルに帰り着きました。
 12日は朝食後、解散になりましたが、時間の許すものは豊後大野市の沈堕の滝を見学し、その後道の駅「きよかわ」の「神楽亭」で豊後牛の焼肉とホルモン焼きを昼食にとりました。その後、竹田市の土木遺産の「白水ダム」の見学に向いましたが、道に不案内だったことと、天候が崩れそうだったため、途中で断念して、帰途に着きました。やはり途中で豪雨に見舞われ、視界が不良になりながらもなんとか帰宅出来ました。お疲れ様でした。
        

熊大土木46年会 令和5年7月11日(於:別府・大分)


 今回、都合がつかなかった人も次回は参加してくれると思います。それでは次回の福岡での再会を楽しみにしています。
(文責:S46年卒 北園芳人氏)
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 昭和44年入学生は全体の入学式典は学園紛争で中止となりました。それでもクラス仲間の交流は盛んでクラ討、コンパ、運動会、女子大との合ハイ等があり、また一年生からコンクリート、測量、水理、土質と専門科目の講義がありました。

 卒業してからは、全国各地で恩師をお呼びしてのクラス会を開催し、近況を仲良く励ましあってきました。
 個人個人は色々な都合がある中でコンスタントに25名前後と高い参加率を維持できました。
 以下に入学当時の写真と昨年11月に開催したクラス会の写真、クラス会の開催履歴を添えています。 

 若い卒業生の皆さんは、職場、自宅周辺の近くにいる仲間と連絡を取りあって、また出張宿泊等がある場合は近くにいる仲間と事前連絡しあって情報交換していく努力を惜しまないで下さい。
 利害損得のない学生時代の仲間が、「何物にもかえがたい一番の宝」です。


昭和44年入学時北地区教養の屋上


令和4年(昭和97年)11月in鹿児島


 
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倉原民良氏 寄稿追加資料

2021年09月29日(水)
2021年度情報誌に掲載いたしました昭和35年卒 倉原 民良 氏の寄稿文で、紙面の都合上掲載できなかった参考資料名、お写真とご自作の漢詩をご紹介します。
<参考資料>  
◇瀬戸大橋事後評価5_23 PDF
波床正敏(大阪産業大学)著
「瀬戸大橋架橋30年の影響に関する事後評価」
―国土計画上の整備目的に関する達成状況についてー
◇本州四国連絡橋 児島・坂出ルート(㈶海洋架橋調査会
◇瀬戸大橋パンフレット(香川県)
◇共用部南舗装工事報告書(日本鋪道㈱四国支店)

<写真の説明>
①昭和34年 国道3号川尻での軟弱地盤載荷試験作業時の写真
 
写真左端 倉原 良民 氏(S35卒)
後列左より 長友 秀実 氏(S35卒)、
  中原 郁夫 氏(S35卒)、
  神毛 英一 氏(S35卒)
前列左より 建設省職員(2名)、
  園田 頼孝 先生


②昭和63年2月  北備讃大橋 主塔 塔頂にて(倉原 良民 氏)
 

③漢詩「ああ 南北備讃大橋」(倉原 民良 氏 作)
 開通年の正月に私の思いを作詞したものです。

ああ南北備讃大橋

旭日に映ゆ瀬戸大橋    主塔は聳え架線は光耀たり
塔頂に立ちて眺む瀬戸の景 悲願百年四国の島
愈々開通す戊申の春    歳月は速く既に十年が経つ
世界に誇る日本の技術   新春に想う四国の発展
四塔は並ぶ讃岐富士    支間は跨ぐ国際航路
与島が繋ぐ四国と中国   力合わすべし与讃阿土
隣接す美姿斜張橋     翼鳥に似て楊貴妃を想う
ともに奏でる瀬戸内の曲  ああ南北備讃大橋
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 毎年、吉満様(横浜市在住)からは、ご自分でパソコンを使って作成されたお手紙やお写真などを送っていただいております。
昭和16年12月に熊本高等工業学校を卒業された吉満様は、今年百寿を迎えられました。
 蘇遙会会員の中でご連絡の取れる方としてはおそらく最高齢と思われます。熊本高等工業学校卒業後に入隊され、終戦後に石油系の大手企業に就職し、定年まで勤めあげられました。
 2020年9月にいただいたお手紙の中から一部をご紹介いたします。

 すっかりご無沙汰しましたが、蘇遙会の皆さんは益々お元気で各方面で活躍されていると思います。大変、ご苦労様です。皆さんの素晴らしい活躍、楽しいお便りで蘇遙会が益々楽しくなってきました。大変嬉しい。お陰様で私も元気、何時の間にか私も100歳になりびっくり、これも、皆さんの温かいご支援の御蔭と深く感謝しております。
 今年は、熊本地方は大変な暴風雨でしたね。熊本市内、大学周辺も大変だったでしょう。異常はなかったでしょうか。それに今年は、連日のようにコロナウイルスの厳しい報道。今年は色々、大変つらい年でした。
 さて、先日こちらでは恒例の「芸術祭」がありました。今年は3「密」でみんなマスクして厳しいでしたが、皆さんから色々作品が提示され楽しい「芸術祭」でした。
 私は今年は内外の懐かしい写真を7枚紹介しました。これが望外の好評でびっくり。これは是非、蘇遙会の皆さんにも紹介したくなりました。ゆっくり楽しんでください。
100歳の年寄りが贈る内外の懐かしい写真です。蘇遙会の皆さんもみんな一緒に楽しんでもらえれば嬉しいです。
平成22年撮影 左下が吉満氏
画像を画像をクリックするとPDFが開きます。





 
令和2年9月12日 吉満 肇

突然、思いもしないところから素晴らしいプレゼントをもらい(中略)大変感動しました。これで百歳になった喜びがこみ上げてきました。これはわが生涯の喜びと思い、蘇遙会の皆様にお知らせしたくなりました。
 
令和2年9月17日 吉満 肇
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私は昭和16年12月、太平洋戦争(当時は大東亜戦争と呼んでいた)開戦と同時に熊本工業学校、卒、翌年2月1日、西武22部隊(熊本)に入隊した第1次学徒出陣組です。すぐ中支予備士官学校(現在の中国、南京)、ここで俄か将校にしたてられ、以後、各地転戦、終戦は4000キロ南方のニューギニャの昼なお暗いジャングルの中でした。

昭和20年8月15日、終戦、
戦争が終わっても帰る船がなく、やっと帰国できたのは翌年、昭和21年7月14日和歌山県、田辺港でした。ニューギニャの戦死者は2万人以上、その大部分は餓死、戦病死と言われているので、私たちは、まさに死に損ないの敗残兵、悲痛な思いの帰国でした。 
戦後、知人の紹介でモービル石油(世界最大の石油会社)に入社、昭和55年、同社を定年退職しました。(3年間学んだ土木業務とは関係の少ない会社でした)
 
蘇遙会の皆さんの各地の楽しい素晴らしい活躍、毎年、楽しく拝見しています…
見ていると自分も一緒に活躍しているようで、旅行しているようで楽しくなり新しい元気が湧いてきます、お忙しいのに、こんな年寄りにまで、何時までも、このような楽しいお便りをいただき、感謝、感謝です、ありがとうございます。
 
しかし、私は、もう98歳、80年も遠い昔、熊本時代の懐かしい学友たちの音信がなくなりました、また、先の戦争でニューギニャで一緒に苦闘した戦友たちの音信もなくなり大変寂しくなってきました、しかし、先日、9月17日、こちらの敬老会(役80名参加)で別紙のようなうれしい白寿記念状をもらい、また、新しい歓び、元気が湧いてきました。
即ち、支配人が、突然、私を呼び、益々お元気な白寿の吉満さんでーすと、みんなに私を紹介されたので、びっくり、場内から一斉に拍手、嬉しい悲鳴でした。楽しい敬老祝賀会でした。(このような昔の諺は、昔の数え年で祝うそうです)、
 
私は足腰が弱り歩行困難、それに年々物忘れがひどくなってきましたので惚け防止に…と、白黒の石を並べたり、パソコンをいじったりして、なんとか頑張っています、よろしくお願いします。ここでも私が最高齢のようで吉満先輩と呼ばれ恐縮しています。
 
蘇遙会の益々の発展、躍進、何時も横浜から応援しています。
 
平成30年10月10日 吉満 肇
 
(以上原文通り)
 
 
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  • 2つ目の就職先も5年目になりました。元気でフルタイム勤めています。(S50卒 T様)
     
  • 無職・独居。意味(言葉・文字・記号・画像)依存(想起・連想・記憶)の生活習慣(理解・判断・表現・行動)を解消中(行深般若波羅蜜多時)です。(S38卒 T様)
     
  • 益城町の自宅、やっと一応の修繕を終え、墓石の再建もできました。近々熊本市内の実家の解体工事が始まる予定です。工学部創立120周年記念式典で、復興への励みが高まることを期待しております。(S50卒 T様)
     
  • 工業会東京支部,山水会土木部会総会にはまめに参加し,皆さんと交流しております.(S42卒T様)
     
  • 歩行不自由でよく転倒します。最近も店頭で腕を骨折、治療中です。(S22工専卒 T様)
     
  • 病気のため、会社を完全リタイアし、現在は療養中です(S49卒 N様)
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中嶋國一様 ご寄稿

2018年01月22日(月)
前略
 大学を出て、50年。半世紀過ぎて、自分の来し方、職業の選択についての自分の失敗談書いて何になるのかと考えるが、本当に老婆心ながら、土木、建設会社に就職する方が多数なので不要と思いながら尚、迷っておられる方が一人でもいたらと思いペンを走らせております。

私たちは昭和19年・20年生まれの年代で、戦争は直には覚えていません。しかし終戦後の焼跡や闇市(やみいち)の存在を知る年代です。
 私は、もし自宅が貧乏でなければ“政治”に非常に関心があったので早稲田の政治学科に行きたかった。それで熊大の法科も考えましたが、教科書を長崎書店で読んで、又、はっきり言って、見栄もありました。法科は点数が低くて意欲がわかない。土木は“政治”に近いという何とはなしの感覚で土木科にしたというのが偽りない心境です。

 さて大学での4年間最初の2年間は教養ですからドイツ語とちょっと国文学をちょっとの勉強で、あとはバイトか遊ぶかです。教養の時間は今でも変わりないと思います。何か教養の時間に特別勉強してますか、是非お聞かせ願いたい。
 大学生時代は、本当に大切な、一生の友人を作る天の与えられた貴重な4年間でした。専門外の法科の学生、また女子大の女学生との一生涯の友を作る期間でした。
大学時代は早朝の牛乳配達を4年間、家庭教師を2年間、九州地区土木系学生会会長を2年間(今でも九州地区土木系学生会ってあるのかな)、話し方教室の副代表を2年務め、大学のコンパの後には新市街の歓楽街で安酒を飲みそこの女たちと話したことなど色々と思い出のある時代です。
 さて、専門課程の2年間では、施工管理の会社に進むなら会社の概要(資本金、従業員数、全国規模か地球規模の会社か等)熊大の先輩がいるならその人たちの出世の程度、他の大学が部長や専務になっているかなど調べました(会社四季報等などなどみれば十分)。専門を「河川」と望むなら「河川工学」の専門書5冊程度暗記するくらい学べば(独学で)充分でした。あとは卒業できるだけの「可」、「60点」以上であれば充分。
 建設会社(大成とか大林とか鹿島など)実習に行っておおよその察しはつくと思いますが、不安なら熊大の土木の先輩の所へ訪ねて行って仕事の内容、賃金、出世、退職後の事など充分下調べして、進路・会社選びをすればいいと思います。

 役所は専攻する人が少ないので参考意見として記憶に留めてください。
 私は大阪市役所の都市開発局連絡係に配属になりました。市の研修で先ず大学では、北海道大から東北大、東京大、大阪大、大阪市立大、京都大、徳島大、山口大、九州大、鹿児島大と専攻は別でも73名いました。その人たちが幹部候補生です。
 最初の2年間で役所での出世、給与、人間関係、組合の事、行政の事、大阪のしょって立つ日本での地位、等々つぶさにわかります。大阪市役所で局長になれるのは京都大学出身者のみ(一部東大もいるがわずか)、あとの大学卒は課長どまり。よくて部長だ、というのが実態でした。また、行政を経験して、政治家を目指す人もいました。行政については本も沢山出ているので、興味のある人は読んでくれたまえ。
 政治についても様々な角度から学んで欲しい。各政党のマニフェストや世界情勢を理解した上で、どこの党に投票するか決めよう。それが大学を出たと言う試金石だ!

 さて、現在は、幼稚園児相手に幼稚園でお話しや、小中高生との文通などと、そろそろ小中生への講演をしようと考えている。また、全国の障害者の方と文通したり、日曜日キリスト教の外人宣教師(アメリカが多いが)と、宗教は別にして文通をする予定である(英語の基礎の勉強優が今に生きる)。面白いぞ、生きるとは
 それでは長くなってご免。
草々
 
やわらかに 積もれる雪に熱てる頬を 埋むるごとき恋してみたし                啄木
夕立に心ときめき肩触れて ビルの谷間に消える二人よ                           雲
ブランコが上手にこげぬと甘ったれ 又もぐずるよその母みつつ                  雲

 
※ご意見やご質問のある方は下記コメント欄へメッセージを下さい。(中嶋)
 
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平成29年11月8日 KKRホテル熊本

 2年ごとに各地を回り同期会を開催しています。平成28年の熊本地震で開催を多少迷いましたが、復興の応援も含めて、10年ぶりに熊本で開催しました。
 ご婦人同伴の大沢、金津、春口君を含め17名参加となりました。会の初めに、(長嶋終生名誉監督に倣って)終生名誉クラス代表味澤君の挨拶と乾杯で開宴、しばらくの歓談ののち、近況報告に移りました。各君、それぞれに、趣味を楽しみ、地域活動に活躍され、充実した日々を送っていました。なかには、現役の人もおり、元気さに驚かされました。一方で、欠席の返事の中には、体調不良の人も数名いました。歳を実感しました。
 中締めは田島君の祝いの謡、平野君の巻頭言、武夫原で締めました。その後、部屋に移り、往時のこと、現況そしてこれからのことなど夜遅くまで語りあい、楽しい得がたい一日を過ごしました。
 翌朝は、熊本城天守閣の復興工事の様子が目の前に見えるレストランで朝食を済ませ、次回長崎か福岡での再会を約し、散会となりました。
文責 右田泰弘

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平成29年5月20~ 21日(土・日曜)アーデンホテル阿蘇で熊大土木系49入学同窓会を開催しました。
参加者は、北園先生、(土木)内田、榎本、大石、緒方、菊池、河野、佐渡、佐藤、園田、多久、鶴久、栃原、中尾、中川博、中川裕、永田、永野、馬場、松田、松原、蓑田、安村、(環土)伊藤、緒方、開、猿渡、御手洗、山田の29名と奥様同伴が一人の総勢30名でした。
 
今回は、熊本地震の被害・復興状況をバスで見学、熊本城~益城~西原~阿蘇に向いました。西原の桑鶴大橋の現場では日立造船JVの担当者が説明。二日目は阿蘇大橋や立野等の被害状況を、北園先生の貴重なご説明を頂きながら見学しました。先生には大変お世話になりました。
 
ホテル大広間での宴会は、皆の近況報告等で盛り上がり、二次会は小部屋に場所を移して深夜まで語り合いました。
 
次会は、3年後の東京オリンピックの年とし、夫婦同伴を促す為、黒川・湯布院辺りでゴルフと観光を組み合わせて同窓会を開催する事と致しました。今回、残念ながら参加出来なかった方は、次回は是非にも夫婦同伴にてご参加下さい。

園田 昇 様 寄稿



 

   

   

 

   

   

   

   

   

   

   

   

   

 
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 私は昭和十八年四月八日前に、熊本工専(現熊本大学)に入学手続きが終わり、同日寄宿舎の入寮手続きも完了。五一年間の寮生活を始めるようになった。寮生活は楽しい筈のものであったが、戦時下食糧不足のためか食事は粗末なものであった。
 学内授業は土木工学科朝の徳広先生が白髪交じりの高齢の方で、教科は地質学、応用力学、採鉱冶金(やきん)学で特に地球内のマグマの動き等の説明を面白く聞いたものである。我々の担任は園田先生で、この人も白髪交じりの温厚な人柄で教科は建築材料と測量学で、先生からは設計製図の宿題に悩まされたものである。
 また、吉田彌七先生の教科は道路、橋梁、鉄筋コンクリートで、熊本工業学校の先輩でもあり、アメリカのカリフォルニア工科大学に留学された特出の経歴の持ち主でもある。先生の教壇での様子の思い出は、髪はオールバックで、何か遠くを見ているような姿勢でお洒落(しゃれ)な人であった。当時は、軍部の目が厳しい時に、平気で生(なま)の英語を喋(しゃべ)りながら、アメリカの事を得意げに語っておられた。アメリカが敵国であったとはいえ、その内容は珍しく聞いたものである。コンクリートをカンクリーッ、カリフォルニアをキャルフォーニと発音していた。
 福井先生は橋梁設計系図の教科で色白の好男子であった。いつの縞柄の紺のスーツを着て教壇に立ち、ニコニコと喋っていたのを思い出す。前田先生からは測量の実技の実習を受けた。ある時、学校裏の白川の川原で実習があった時。測量機の扱いが乱暴であると、ひどく叱られたことがあった。従って測量の成績が最低であったに違いないと反省していた。
 第二次大戦もいよいよ熾烈(しれつ)を極めてきた時、私達熊本工専の学生も国策に沿い国土防衛のために、昭和十九年六月から昭和二十年六月までの一年間、学業を一時休止して、クラスの者と三班に分かれ、北九州、佐世保、広島へとそれぞれ学徒動員された。私は西部軍管区北九州小倉の山田舞台にクラスメートと二人で配属された。後に沖縄出身の工業学校の生徒と三人になるが、十五坪ほどの事務所に五坪の畳敷の間仕切りが在って、そこで、三人が勤務しながら寝食を共にすることになった。事務所の隣には古い家に老夫婦が住んでいて、私たちの食事の用意をしてくれた。この人は元の地主で、外見では事務所とその二軒が広野にポツンと在るように見えるが、地下は多くの濠がひしめいていた。
 山田部隊とは陸軍の弾薬を貯蔵する施設で、広大な敷地に沢山の地下防空壕が在ったが、私共はその区域には立ち入りできなかった。
私達に軍服が支給された。極(き)まった任務は無かったが、一度だけ日豊沿線のどこかに、軍の車に乗せられて連れて行かれた事がある。陸軍の防空壕建設のためのトンネルの測量であった。その当時、いよいよ米軍が東九州に戦前上陸するのに備えるための陣地であった。私共は学生であったが、兵隊から将校並みの扱いを受けたので面食らっていた。
 測量には誤差が出て兵隊から笑われた。昭和十九年の八月頃、各科の学生で体の弱い者約三十五名が集められて、熊本の天草に二泊三日の訓練が行われた。訓練とは言え水泳であった。集合場所は宇土町役場で点呼の後、三角港に向かって行進した。三角の島原湾は干満の差が大潮のときで三米五十糎、彼岸潮では六米となるので、満潮の時間を待って出港した。船中、先生より説明があって、三角港と北方の向かいにある島原半島の高台には有名な天草四郎時貞の原城が遠望された。出港後数十分の後、島原諸島の先端にある牛深港※に入った。港には旅館が三軒在って、その周りに集落があった。当時自疎初頭には人口が千人くらいと聞いていたが、現在は宅地開発が進み、二万人の集落に発展していると聞いている。この大戦下に、水泳ができるとは何故であろうかと、不思議でならない。陸海軍の兵士の事を思いやりながら考えた。そのうち周囲の先生方を見ていると、その謎が解けた。それは、先生たちの行為にあった。あの配属将校さえくつろいでいる姿は、我々以上だと感じた。軍人といえども同じ人間であった、戦争という囲縛(いばく)から逃れたいのだ。我等が水泳に興じている上空を米軍の艦隊機グラマンが編隊を組んで北九州方面に飛んで行った。何とも奇妙な風景であった。
 朝食を二階の長いテーブルを囲んで済ませると、水泳の時間が来た。港の一角においた漁師が一艘の小舟を艪(ろ)で繰りながら我等の水泳を注意していた。牛深港※は潮の流れが速く、満潮の時でも、返し潮で沖に引かれて危険が在ると言っていた。泳ぎながら沖を見ると、海面が丸くふくらんで迫ってくる。恐ろしい感じであった。一時間の水泳も終わり熊本に帰還する前夜の夕食後に奇妙な事件が起こった。二階の各テーブルの上に盛られた大皿には大量のうなぎが盛られていた。その前日にはうなぎが籠一杯の大漁があって、今日は朝から焼いていたそうである。その食欲は学生だけに限らず同行の人すべてである。しかし、その時私は別の食卓に座っていた。そこには鯛にすずき、たこの刺身が並んでいた。この宿には私と同年配の娘が二人居て、宿の雑用を加勢していた。一人はこの宿の娘らしく、いつも首に白い包帯を巻いて咳をしていて気味が悪く、もう一人は頑丈そうだが色が黒い。そこで私はなぜ私だけにこのようなご馳走を振舞ってくれるのかと聞くと、首の包帯の女が、「タヱちゃんに聞いてみな」と言う。色黒の女のことをタヱと言うらしい。「わたい髙畑さんとづっこけてんよかったィ」私はその意味が全く分かりません。入学当初以来、熊本弁がわからず、教室の前の高巣君と後ろの席の高本君が私の頭越しに一方が「そがどけつにやん」片方は「くれんくれん」と言う。高巣君は山我※の生まれで高本君は宇土の方という。後に学校が始まった時に、黒女の「づっこけ」の意味を聞くと高巣君は笑いながら「髙畑君、その黒ん坊はあんたに惚れとったつばい。色の黒かつは海女ぢゃ、海女は気が荒かつけん、そげんこつぐらいあ平気で言うばいた。」結局「づっこける」という言葉は「寝る」という意味であった。なんとも娘の発言とは思えんが、戦時中で青年は糎に行き、男日照りの時に三十五人の若人が、一挙に押し寄せた田野だから無理もない。一方、うなぎの贅沢にあづかった人達は、その頃、あたかも栄養不足の折柄、堪えきれんもので腹一杯食べたのは言うまでもない、問題はその後である。配属将校が腹痛で苦しんでいるという噂が広がり、皆が心配して熊本への帰還が何時になるだろうかという事であった。しかし、その後、下痢患者が続出するに及んで、うなぎの食い過ぎであることが判明した。病気に軍事も平時もである。その中に、この様な優遇を受けたことは不思議という外はない。
夕日の入る時、宿の二階の欄干に烏が留まったように、並んだ景色は全く優雅であり、遠い波聞に赤い夕日の沈む瞬間はすべての苦悩を取り除いてくれる。学徒動員後新学期が始まり、住居をさがすことになり、第五高等学校の東側に下宿屋があることを聞いた。ようやく、探しあてる事ができたが、そこは、国道より立田山に行く道沿いであった。そこの下宿時代にあった最も辛い思い出は食事が配給食で毎日のようにカボチヤとカタクリの湯溶きで殆ど飢餓状態で数カ月間過ごしました。一日中食べる事しか考えないで、勉強どころの状態ではなかった。五間(いつま)に五人の下宿人の一人が私の隣室、第五高等学校の教授でした。ある時、先生が「高畑君、中国の故事に『金の卵を産む鶏は金の餌を食う』という諺(ことわざ)がある。俺達も金の餌を探しに行くか」と、羊の買い出しに誘われました。喜んでそれに従ったのは言うまでもない。
 下宿より国道を東方向に、たどって三里木という所を過ぎると「ケングン※3」という部落に芋畑が並んでおり、そこの一軒にたどり着いて、ようやく芋を手に入れることができた。芋を担いで帰途についたが体力も無く死にそうになった。五高の先生は私の兄より年上で三十歳台の何を食べているのか頗(すこぶ)る元気が良く、道すがらも帰途の半分以上は扱いでくれた。私はこの先生を兄のように思えた。
 私の兄は子飼い橋※4を渡れば陸軍の連隊があり、熊本連隊の二十二部隊の工兵隊に所属していた。子飼い橋は学校のすぐそばで兵舎は真正面に見えた。この頃には既に前線に出ていたものと思う。兄はとても私を可愛がってくれ、私が入学当初に一度だけ会いに来てくれて、市内のレストランに連れて行ってくれた。
ある時、五高の先生が「髙畑君、立田山に登ってみようぢゃないか」と、誘われたので追いて行くことにした。その日はあまり体調が良くなかったが、いつも世話になっていたので断り切れなかった。登り道をしばらく行ったところで先生が「髙畑君よ。上から夏目先生が『オーイ』と言ってるぞ」と、笑いながら言う。私は坂の上の方を仰ぎ見た途端、意識が無くなって後は記憶になく、軽い脳貧血を起こしていた。後に話を聞けば、先生は大変心配されて、近所の農家にリヤカーを借りて下宿まで送ってくれたそうです。翌日、部屋の机の上に卵が三個置いてあった。『オーイ』とは無論夏目漱石の作品「峠の茶屋」の冒頭である。

 
文章の体裁は本文のまま。文中のカッコ書きの中は髙畑氏記載の読み仮名。
※は地理、地名の勘違いではないかと思われる部分。下記に蘇遙会会長北園氏による校正案を記す。
※1 牛深港 → 口之津港
※2 山我 → 山鹿(ヤマガ)
※3 ケングン → 津久礼 又は 原水
※4 子飼い橋 → 子飼橋

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