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ふるさとの 5縁を繋ぐ 肥後椿(2023年)




副会長(HP担当)のつぶやき

S49年(22回)卒  岡 本 敏 秀
 
 春爛漫の中、コロナ感染者数が減少しマスク着用も解除され、外出する機会が少しづつ増えてきました。とは言え、コロナ禍で染みついたTVのお守をする時間はなかなか減らず、年のせいか性格からかリモコンボタンをせっかちに押す毎日が続いています。
 奈良東大寺のお水取り(3月12日)も終わると関西に春が訪れると言われます。私の現役時代の単身赴任先である四国では、松山の椿神社の椿祭り(1月28日)が終わると春が来ると言われていました。椿と言えば、熊本では「肥後椿」が春を告げます。我が家の「肥後椿」は、満開だったり蕾だったり気まぐれに咲き始めています。会員の皆様のお家の「肥後椿」の開花状況は如何でしょうか?会員の皆様からのHPへの投稿記事及び写真をお待ちしています。(投稿先 Eメール ctchg770@ybb.ne.jp )

春のハイキングのお誘い

 また、3月14日に東京で全国に先駆け桜の開花が宣言されました。平年より6日早いとのこと。
関西でも平年より早い3月21日に開花する予想で、満開は3月28日となっています。
 当会の春のハイキング(4月1日)については、先にご案内いたしましたが満開の桜又は花吹雪の中でのハイキングが楽しめること間違いなしです。
皆様のご参加お待ちしています。
 連絡先 090-3352-6979  岡本 敏秀

今年度の主な行事
  1. 春のハイキング      4月 1日(土)
  2. 武夫原ゴルフ会      3月27日(月) (6月・11月予定)
  3. 総会・懇親会(役員改選)   9月 9日(土)    
  4. 秋のハイキング      秋に予定

「令和4年度熊本大学卒業生表彰式」に出席して

1970(昭和45)年 法文学部法科卒業  太田恵太郎
 

 
 11月5日(土)熊本大学にて、学園祭(「紫熊祭」)とホームカミングデーが開催される中、「令和4年度卒業生表彰式」が行われました。今回、思いがけなく受賞者として出席させていただきました。多くの先輩諸氏を差し置いての表彰にいささか戸惑いながら5年ぶりに表門(「赤門」)をくぐりました。
 
 表彰式までの時間、真っ先に復活した五高記念館に足を運びました。赤煉瓦の優美な姿に歴史の重みを感じます。次に夏目漱石の銅像・碑・句碑に向かいました。「秋はふみ 吾に天下の 志」の句碑に偉大な先輩方から脈々と受け継がれてきた思想哲学を肌で実感できました。
 
 今回表彰を受けたのは15名、うち武夫原会からは2名。小川学長から一人一人に賞状と記念品を頂きました。私の場合、玉名市のナルセ機材有限会社(鳴瀬益幸社長)の「ワンペダル」支援活動や講演活動(2017年6月24日の法学部、文学部共催の武夫原会講演会、2018年9月8日の関西武夫原会講演)他多くの中小企業の経営支援活動を評価していただきました。
 その後の記念撮影に続いて、昼食懇談会が行われ、村田武夫原会会長、水元文学部長、大日方法学部長らと楽しい時間を過ごさせていただきました。
 
 午後からはホームカミングデーに参加いたしました。3年ぶりの開催でした(第15回)。小川学長から熊本大学の現状と将来についての報告がありました。目指す大学改革の方向性、学長のビジョンとリーダーシップに明るい未来を感じました。特に印象に残ったのは、①産学官に加えて金(金融機関)との連携強化、②半導体・デジタル研究教育機構(仮称)の設置拡充の構想、③国際マンガ学教育センターの地域・海外を巻き込んだ取り組みです。
 
 一日熊本大学黒髪キャンパスの空気を吸って、日頃の武夫原会会員としての自覚の足りなさを反省した次第です。今回このような機会を作っていただいた皆様方に心より感謝申し上げます。
表彰式 懇談の様子

新会員紹介(関西へいらっしゃ~い)

初めまして。この度、熊本大学関西武夫原会に入会致しました
平成26年度・法学部卒の石川天志(いしかわ ひろし)と申します。
現在、野村證券株式会社という証券会社で主に法人様の担当として業務に励んでおります。
 
出身は福岡県八女市星野村という片田舎で、高校まで福岡におりました。
母方の実家が山鹿市で、小さな頃にはよくグリーンランドに遊びに行っておりました。
 
大学時代には剣道に打ち込み、4年次に主将として全国大会に出場できたことが一番の思い出です。
また黒髪の学生寮で4年間過ごし、学部や学年を越えた交流の中で本当にたくさんのことを学ばせて頂いた日々でした。
 
今まで九州と関東にしか所縁がなく、大変心細く思っておりましたが
このような会に参加させていただくことを大変嬉しく思っております。
若輩者ではございますが、宜しくお願い申し上げます。
 

復旧なった赤レンガ、五高記念館!

第16回(昭和43年卒)顧問 本島 昭男
 
  2022年5月18日(水)、熊本大学五高記念館(本館)の一般公開が始まったのを機に3年ぶりに熊本を訪れました。
 久しぶりに訪れる熊本大学は赤レンガの赤門と平成28年の熊本地震から見事に復旧した五高記念館が迎えてくれました。 
    まず、水元文学部部長と教育研究支援部・松村副課長にご案内いただき小川久雄熊本大学学長にお会いしました。学長は長年、国立循環器病研究センターにおられましたので関西に思い入れが深く、関西の会には是非行きたいと強く言っておられました。
 今年は9月10日(土)関西武夫原会、11月26日(土)関西連合同窓会の総会・懇親会が予定されており、関西でお会いできるのが楽しみです。
 次に水元学部長に公開された五高記念館の内部を案内していただき第五高等学校の歴史・教育・学校生活・卒業生についての資料などを見ていきましたが復元教室や2階への階段、池田勇人元総理寄贈の太鼓など興味を引かれました。そのほか、内部の資料等の復旧はまだまだ時間がかかりそうですが、建物の雄姿を目にしたことで大変うれしく感動しました。
五高記念館は同じ年に建てられた化学実験場、表門の赤門や設計図と共に国の重要文化財に指定されています。私達もこの赤レンガの建物で実際に授業を受けたことが思い出されます。

 

  法学部・文学部棟の2階には「武夫原サロン」があります。サロンの入り口にはちゃんと「関西に住むなら そうだ!同窓会へ入ろう!」と学生に呼かけるポスターが貼られていましたので、私も事務の方に関西武夫原会のホームページを見ていただき関西武夫原会を大いにPRしてきました。

 
 
 最終日は熊本のシンボル熊本城の天守閣の内部が公開されましたので見てきました。エレベーターで最上階まで行けるようになっていましたので誰でも天守に登れるのでとても良いことだと思いました。しかし、建物は復旧しましたが石垣等はあと20年要するとのことですので一口城主になると個人でも熊本城の復興に役立つことが実感できます。

 
  熊本には高校の同級生が社長をしている会社に仕事で行ったのですが、以前、熊本県大阪事務所におられた法文学部出身の㈱くまもとDMC磯田社長と会うことができ、そこには熊本大学に勤務していた兄の息子(甥)が元気に働いていました。色々と話をしていくと不思議と5縁(血縁・地縁・学縁・社縁・趣縁)で繋がっていることが今さらのように実感できると同時に驚きでもありました。
 皆様も熊本に行く機会があったら是非、復旧し、一般公開なった赤レンガの五高記念館を楽しみながらご縁(5縁)を繋いでいきましょう!

我が家の肥後椿(第2弾)

今年も沢山の会員のお庭に肥後椿が咲きました。
関西武夫原会同窓会に出席すればゲットできますよ。


ふるさとの 5縁を繋ぐ 肥後椿(2022年)

16回(昭和43年卒)本島 昭男


 肥後椿は、門外不出の花として肥後藩で栽培されてきた肥後六花の一つで20年前から頂いたのを挿し木して増やして育てています。
 我が家では、現在、6種類の品種の肥後椿を育てています。寒さに耐えて春には故郷の花を咲かしてくれます。玄関横の肥後椿は2メート近くに達し、3月から4月にかけて共に遊んでいます。
 皆様も肥後椿を自宅で楽しんでみませんか!

我が家の花をご覧ください。


加藤清正と大阪城の虎

関西武夫原会  法文学部 昭和41年卒
大阪観光ボランティアガイド  矢野 大輔
 
   令和4年(2022年)は干支で寅年です。寅は動物でいえば虎ということになります。虎は「一日にして千里を行き千里を帰る」といわれるほどの強靭な生命力を持っており、厄災を払い家運隆盛を導くといわれ、外敵を見据える強い視線から、魔よけの意味合いでも描かれています。
 特に今年は「五黄の虎」と言われ、五黄土星生まれの人は「周囲を圧倒するほどのパワーの持ち主で運気が強大」「強い正義感と信念の持ち主で、困難を克服する強い意志と行動力がある」と言われています。そのため五黄土星と寅年が合わさった「五黄の虎」に生まれた人は最強の運勢を持っていると考えられています。自分の考えや信念は絶対に曲げず貫き、強情で強引な性格の持ち主ということになります。
 
  ところで天下の名城大阪城の天守閣には最上階4面の黒壁各面に2頭ずつ合計8頭の大虎のレリーフが飾られていますが、わが熊本城の加藤清正公と何らかの関係があるのでしょうか。熊本城の創建者として加藤清正は熊本では清正公(せいしょうこう)、清正公様(せいしょうこうさま)と敬称をつけて呼ばれていますが、また加藤清正は虎退治の名将としてその十文字槍とともに高名な武将です。もちろん太閤豊臣秀吉の腹心として忘れられない存在です。加藤清正は太閤豊臣秀吉の創設になる大坂城の虎とどんな関係があるのでしょうか。大阪城天守閣の館長北川央氏の近著「大阪城 秀吉から現代までの50の秘話」(新潮新書)からその秘められた由来を紹介します。
 
  そもそものきっかけは文禄元年十二月に、肥前名護屋城にいた秀吉のもとに朝鮮半島に出陣中の亀井慈矩から現地で捕らえた虎一頭が贈られてきたことである。日本にはいない珍しい猛獣が贈られたことをたいそう喜んだ秀吉は、その虎を京都聚楽第の関白秀次のもとに送り、さらに後陽成天皇の叡覧に供するよう指示した。その後も、加藤嘉明・中川秀成・鍋島直茂・吉川広家といった諸将から彼らが仕留めた虎の肉や皮・肝などが相次いで秀吉のもとに送られてきた。そして文禄三年十二月二十五日、豊臣政権の奉行である浅野長政と木下吉隆の連署状で朝鮮出陣中の諸将に対し、虎狩りが命じられたのである。この虎狩りは「虎御用」と呼ばれ、年を取り体力に衰えの目立つ秀吉の養生のため、虎の頭・肉・腸をしっかりと塩漬けにして送れ、というもので、皮は不要なので好きにするがいいと伝えている。命を受けた諸将は競って虎狩りに精を出した。
 江戸時代に秀吉人気を決定づけた「絵本太閤記」には、加藤清正と後藤又兵衛の虎狩りに関するエピソードが紹介されている。清正のものは以下のとおりである。
 

 ある日、清正の陣中に裏山から大虎が現れて、馬を咥えて走り去った。夜更けにもこの大虎が現れて小姓の上月左膳が食い殺された。我が武名の恥辱を晴らさんと、清正は数千の軍勢で山を取り巻き、鐘を鳴らし、鼓を打って、かの大虎を追い立てた。ようやく姿を現した大虎は毛を逆立て、大口を開いて飛びかかってきたが、清正は家臣を止めてただ一人で大虎に立ち向かい、狙いを定めて鉄砲を放ったところ、見事弾丸が口中を貫き、大虎を仕留めたという。清正が仕留めたという虎二頭の頭蓋骨が名古屋の徳川美術館に所蔵される。清正の孫娘が旗本の阿部家に嫁いだ際に持参し、同家に伝来したもので、享保十五年には将軍吉宗にも披露された。「絵本太閤記」には生け捕りにされて秀吉のもとに送られてきた虎の絵も掲載されているが秀吉はそうした虎を檻に入れ、大阪城で飼ったとも伝えられている。

 ところで復興天守閣が竣工して四年後、昭和十年に、東京巨人軍(現読売巨人軍)に次ぐ第二のプロ野球チームとして大阪タイガーズ(現阪神タイガース)が誕生した。タイガースの名称は阪神電鉄社員の公募によって決定されたといい、(中略)当時のプロ野球連盟の関西の責任者は、復興された新たな大阪のシンボルとなった大阪城天守閣の虎がチーム名の由来であると伝えている。(以上、大阪城館長北川央氏の著作から引用しました)