各OB会情報

岩倉高等学校山岳部創設期とOB会

昭和35年度商業科卒業岩倉高等学校山岳部OB会会員

 山岳部OB会が創立されて昨年に60周年を迎え現在も大勢で活動しています。しかし山岳部創立期については知らない会員がいるので、創立者として当時の経緯を振り返ってみました。
 山(自然)を敬い、愛し愛され、抱かれて山と対峙して来ました。
自分は1958(s33)年岩倉高校に入学、機関科を志望しましたが商業科に掬われました。一年後に山岳部が仮部になりました。この年OB会は設立(十周年記念誌)。

1年生
 この年の夏休みに山岳部の募集があり、応募しました。目的地は朝日連峰。後で分かったことですが、これは林間学校でした。開催理由は色々とあったようです。先生4人(間部、奥山、野村、菅原)生徒30人(1年生4人しか記憶に有りません)当初、山形より朝日鉱泉、大朝日岳、以東岳、大鳥池の予定が、台風の為、バスが不通で急遽国鉄左沢線、左沢より軌道跡を古寺鉱泉に変更しました。大朝日岳の直下に幕営。私達は3年生と同幕でした。3年生は皆のキスリングをベッド代わりに大いびき、これにはあきれるより感心してしまいました。台風の大雨で、自分たちの足元は水がざぶざぶと流れ一睡もできませんでした。テントが飛ばされたと悲鳴も聞こえました。
我々初年兵には地獄の責めが始まったのです。多分、食器の後片付けは自分たちでするからと宿代を値切ったのだと思います。何しろ三十人超えの食器を冷たい水で洗うのですから大変でした。しかも、後ろで三年生が見張って居りました。今も語られる逸話です。
 別の山行では一年生二人と三年生で秩父の両神山に行きました。兄貴のナーゲル靴を履いてザァックザックと音を立てながら夜道を歩きました。その頃はバスの運行もなく随分遅くに着きました。ザイルを持って夜中に到着した先輩が居て、翌朝小さな岩場でクライムの練習をした記憶があります。(十周年記念誌にOB会の初山行と記述があります)。

2年生 【1959(s34)年】
 この頃から有志で上野の山をランニング、寛永寺の階段でボッカの訓練を始めました。学割も優先的に貰えました。OB会もこの頃から飯田橋の喫茶店で行っていたのを紹介され見学かたがた行ったのを思い出します。
 単独行で鳳凰山のドンゾコ沢を詰め、大雨にやられ下山で一緒になった人の韮崎の実家に泊めて貰ったのは良かったですが、夜明けごろ洪水が押し寄せ家ごと流されてしまいました。こんな事は予測でき無かった為それこそ着の身着のままの避難で、大きな屋敷がドンブラコとスローモーションのように流されて行くのを唖然と見ていました。
 先輩が卒業するに当たり、記念品を渡すことになり、先生の承諾を得ず金を集めた為に、父兄からのご注進により教員室で説諭を受けました。もう一人の教師がニヤニヤしながら通り過ぎていきました。

3年生 【1960(s35)年】
 5月の甘利山では、3先生と間部先生の子、敦坊をはじめ総勢30人超えの大人数でした。夏山は前年に北アルプスで消息を断った先輩の捜索隊と一緒に学生は上高地にベースを張りました。三俣蓮華から辿り槍ヶ岳一の沢で半分雪に埋まって居たのを発見されたそうです。この年は間部先生の弟さんの追悼山行に三頭山に行き、数馬の山崎屋に一泊しました。マトンを食べ過ぎて縁側で戻してしまいましたが朝見ると犬が綺麗に掃除を済ませていました。
 初代山岳部部長の功績で生徒功労賞を頂きました。頂くにあたり成績が悪いから価しないという意見があり、間部先生が、ご苦労されたことを担任の先生から聞かされました。

 その後、就職し山旅は暫くご無沙汰していたと思います。OB会では後立山 鹿島槍ヶ岳、爺岳は何回(1966年頃)か行っています。積雪期が大半です。OB会の集会所は定まらず喫茶店等を渡り歩き、会員に現役の教師が在籍して居たので交渉し部室に決まりました。
 その他にもOB会活動は多岐多様に及ぶのですが情報量が多いのでまたの機会に掲載したいと思います。

“岩倉高等学校山岳部創設期とOB会” への1件のフィードバック

  1. 白石忠夫 says:

    久しぶりに 間部氏 奥山氏のお顔が思い出されます。
     

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