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2010/06/04

第38回見学会-史蹟生野銀山と出石城下町散策

平成22年4月8日
仲田  修(新6)

4月8日(木)の見学会は各地の桜だよりでは5分咲きのまま10日間が続いた頃、雨と冷え込みから心配された天候は当日幸運にも晴れ渡り、2か所からバス2台で気分晴れやかに舞鶴道へ。目的地に近づくにつれ沿道の桜は満開の光景、次から次へと一行を歓迎してくれているようだ。

1.出石の永楽館と散策
出石には4回訪れているが、永楽館は初めて訪れる。説明パンフレットには「明治34年開館し、近畿最古の芝居小屋」とある。戦後(死語か?)は映画時代を迎え、映画館が娯楽文化の中心となり、永楽館は細々と地方巡業の芝居小屋になっていったそうだ。華やかな明治の往時を伝えるべく、元のまま復元された客席、舞台は時代劇映画に出てくるそのままだ。舞台には所狭しと昭和22年以降のヒット映画のポスターの数々。見学者から、“この映画観た々々”とか、“この女優さんとは遠縁なんや”、“懐かしいなあ、もう一度観たくなった”と、皆さん思い思いに楽しめた雰囲気。開館当時は歌舞伎、芝居の興行が中心。舞台装置も当時のまま復元され、表舞台とは裏腹に、舞台下には木製の大きな歯車の組み合わせ。動力は太い麻ロープを今でいえばベルトの如く人力で廻す様を想像すると回転舞台、セリ等呼吸合わせが大変だったろうと思う。京都太秦映画村にも無いこの館の宝物と感じた。メカに興味ある方は一度足を運ばれたらと思う。
次に町の散策では、桜が見事に満開。観光客は少なくゆったりとした散策が出来た。城跡の桜、シンボルタワー?の辰鼓楼の黒と桜のコラボはご当地ならの光景だ。売店のおばさんに聞くと、ゴールデンウイークの終わった5月は観光客は少ないとのこと。
個人的な趣向を一筆加えると、スポットの一つ「宗鏡寺」、沢庵和尚物語り由来の「沢庵寺」。手入れされた寺庭、四季折々の草花の内庭散策で癒される気分だ。
併せて、目的の一つ「円空」作風の僧を模した一刀彫2体(直径50㎝、高さ70㎝くらい)が迎えてくれる。この僧に再会することが出石を訪れた証であり、ほっとする気分が不思議だ。(漬物のタクアン:和尚が大根の食し方から広めた由来がネーミングと伝承されている)

2.生野銀山の見学
入場すると大きな説明パネルが目につく。「開坑1200年の歴史とロマンのアンダーグランド」とある。誰がこの素晴らしいキャッチコピーを考えたのか興味が湧く。
開坑は大同2年(807年)と紹介され、1200年の歴史ならば、空海が真言密教を唐で修業し、日本に持ち帰った時代に近い。余談ながら日本仏教伝来1300年の源流、その聖地「寧波(ニンポー)」から渡った空海と同じころとなれば、銀山の歴史はすごい。
本題から外れた記述になったが、銀山を今様に考えると、金・銀・銅の需要はこの時代から現代に至っても変わることはない。手作業(人力)から工業化へと辿った道は世の常の如くと考えられようか。説明パネルを要約すると、坑道総延長350km以上、当時の坑夫は一度入坑すると5~10日間は坑内で寝泊まりする。人を運搬する手段は無く、坑夫はハシゴ、ロープで下に々々降りて採掘現場に着く。一方ヨーロッパでは石炭が主エネルギーのため、採掘機械が発明され、後にダイナマイトが有効に使われて機械化が更に発展した。その間、日本の生野銅山では産出鉱物の価値から、度々権利所有者が入れ替わり、その度に西欧諸国から最新のマシンを輸入し効率化を図ったようだ。(水流削岩機、電池式トロッコ搬出車)
入口で出会った坑道管理者に2,3質問。
・坑夫は獄門入り(囚人)だったのか?
⇒ ここは一切囚人は入坑させず、男女とも俸給制だった
・坑夫は最盛期は何人くらい働いていたのか?
⇒ 坑夫は全体の呼称で、仕事は分類されて職種ははっきり分かれていたようだが、毎日、数百人が従事していた
・事故は多かったですか?
⇒ 一番怖かったのは“落盤”、一度に数人が生き埋めになることもよくあったようだ
終わりに、坑道は観光用によく整備され、アンダーグランドの作業の様子がみてとれる。観光ルートの坑道は900m、散策に向いて、昔人の過酷な職種がカルチャーとして肌に感じられる。ここは出石に近く、この見学会に参加されなかった方も是非一度足を運ばれては如何でしょうか。

 【 写真集(出石城下町~史蹟生野銀山) 】 画像をクリックすると拡大します
写真提供 : 坂本 誠一氏(新5) ・ 仲田 修氏(新6)

    

    

          

    

    

       

   

  

  

post by 国枝敏夫

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