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恩師だより

笹月 繁先生<昭和39年~昭和49年>
 私は昭和39年10月、保健体育科教員として当時大阪城内に設立されたばかりの、大阪市立修道館少年剣道指導担当との兼務で着任しました。着任しての第一声は今でも覚えています。「グラウンドは何処にあるんですか」体育の教員として当然のことでしょう。中庭のようなグラウンドと小さな体育館での指導でした。以来10年間の勤務でした。
 冬は寒中登山、秋にはウォーキングテストと称して野山へと校外行事が盛んな学校でした。当時学校は、東区南久太郎町に在り、商業都市の中心的地域でしたから、生徒にとって校外での行事は気分転換になったのではと思います。部活動も盛んで、特に珠算部の好成績が記憶にあります。運動部も施設に恵まれない状況でも活発でした。私も剣道部指導で数々の生徒達と接しましたが、中でも船城英教君は教員となり、府剣道連盟行事やOB会の世話をするなど活動しています。
 私は現在85歳。剣道範士八段。修道館講師。元気な年寄りです。


安原 敏夫先生<昭和42年~昭和51年>
 高校のとき、珠算部員としてお互いに競いました。高卒後、証券会社に勤務しましたが4年目の9月に証券不況に成り、年度末に依願退職して4月に教員として、大阪市立の商業高校に転身しました。昭和42年の4月に東商に転勤しました。9年間楽しく過ごしましたが、社会科教員として府立高校に異動しました。定年退職後、三菱信託銀行、関西大学入試広報課勤務を経て、大阪市立の小学校「いきいき」で3年10か月、児童たちから元気をもらいました。
 珠算は広く愛用されて、計算にはなくてならない計算器になっています。徳川時代には裕福な子供たちは寺子屋に通って、読み書きそろばんを習いました。珠算は川柳にも読まれています。『親の珠算を息子が破さんする』破産と破算をかけています。親が苦労して作り上げた身代を息子が破産してしまう、という意味です。そろばんの名産地は兵庫県と島根県です。
 皆様のご活躍を期待しています。


向山 光正先生<昭和49年~昭和61年>
  大切な人、親しい人が鬼籍に入りました。私は今76歳です。私より若く、元気だった人を見送り、自分は長生きしてると思います。
 昨年女の初孫が生まれました。お七夜・食い初め・桃の節句と、慌ただしくも嬉しいものです。日毎の成長には目を見張ります。
 昨年の東商同窓会に、久し振りに出席し、担任していた3年F組の旧姓小田さんらにも会いました。その後F組同窓会を持ってもらいました。皆さん還暦なのには驚きました。



松江 靖朝先生<昭和50年~平成6年>
 ウクライナ侵攻やトランプ関税に心を痛めつつ、私も何時の間にか八十路を超えました。ウォーキングの「石川桜堤」も何時の間にか葉桜です。そんな中、道元禅師の『眼横鼻直』に出会いました。『眼横鼻直』とは、眼は横に並び、鼻は縦についている、という意味で、「真理とは、特別な所にある特別な物ではなく、当たり前の事の中にある当たり前の事」というメッセージなのだそうです。宋代中国の修行から戻った道元に日本では知りえない「スペシャルな教え」を期待する人々に「眼は横、鼻は縦」と素っ気なく答えられたとか。当たり前の事を、当たり前に行じていく日々の精進こそが、仏道だと禅師は伝えたかったのです。都合のいい近道は存在しない。当たり前の事から可能性は生まれると云う教えです。坐骨神経痛で痛さに四苦八苦している私ですが、トランプさんにも理解して貰える妙薬が有ればいいですね。
 若き日の写真です。昔をしのぶ一助となるかもね…


北山 武司先生<昭和56年~平成2年>
 72歳。旅行、パン作り、スキー、ジム通いが日々の楽しみです。コロナ禍の旅行支援を活用し、全国を巡りながら計34泊もしました。温泉に入ったり、美味しいものを味わったり、各地の風景や人との出会いを楽しみました。この冬は長野県白馬村に2週間滞在し、スキーを満喫。大雪にも見舞われ、友人宅の除雪作業も手伝いました。スコップ片手に雪かきすると、ちょっとした筋トレ気分で良い運動に。パン作りは長年の趣味で、焼きたての香りに癒されています。「パン屋できるね」と言われることも(笑)。ジム通いで健康維持にも励んでいます。年齢はただの数字。これからも好奇心を大切に、心豊かに暮らしていきたいです。Instagramもやっているので、旅やパン、スキーの写真など、よかったらのぞいてみてください♪
↑なかなか素晴らしいでしょ、AIに書いて貰いました。
https://www.instagram.com/marutaro1206/?hl=ja


石井雅宏先生<昭和57年~平成6年・平成17年~平成19年>
 同総会誌へ消息を寄せるのが最後と思うと寂しさを禁じえません。
 私にとって東商は、最も長く務めさせていただいた学校であり、定年を迎えた学校でもあります。
 現在78歳の私は、75歳で仕事に区切りをつけました。しかし引きこもっていたのではダメだと考え、いくつかの関わりを残しました。その一つに、富本奨学会があります。実はこれも東商がご縁となっています。
 富本奨学会は、大阪府下の大学の大学生・大学院生に返済不要の奨学金を給付している公益財団法人で、設立者が東商に在学された故富本信太郎氏なのです。氏は、経済的な理由で修学が困難な学生を支援しようと私財を投じてこの奨学会を設立されました。そして、現在、その事業に参画させていただいているのが私の立ち位置となっています。
 東商は統合後、東商の名を冠する団体が少しずつ減少する状況にあります。ただ私は、名も重要でありますが、その精神が引き継がれることがより重要と感じております。私は今の立ち位置を大切に、また東商とのご縁を大切に、体が許すまで歩んでいきたいと考えています。   
 同総会のみなさまにおかれましても、東商とのご縁をどこかに感じつつ歩まれますようエールを贈り、この稿を閉じさせていただきます。


田中久子先生<昭和57年~平成4年>
 「多系統萎縮症」という難病に罹患した主人の闘病生活も5年になろうとしています。
様々なストレスを感じますが、私自身はランニングを続けることで、元気で過ごすことができています。
そんな中、今年2月の大阪マラソンでは、読売テレビの特別番組の中で取り上げて頂きました。事前に取材された内容や、走りながらスタジオからのインタビューに答える姿が放送で流れました。HPにも載せて頂くなど、得難い経験をすることができました。




浅利 守光先生<昭和58年~昭和63年>
          『90歳になります。
 就任時の昭和58年、前年新築の校舎、高等学校では希有の高層8階。商業科として、最新の機器・授業内容も革新でした。今思えば、商業の新興科目の情報が大学入試の重要科目の一つになっていることです。屋上から見下ろすと、眼球がクルクル。懐かしい東商が、今も此処に在るようです。
 当時、COBOLだFORTRANだとか、ハードごとの方言に悩まされていたのが、Windowsになって、ソフトで共通・統一。また、プログラムを組むことから、プログラムを使うことへと一変したことなど、今となっては、懐かしい年寄りの繰り言です。
 私事、取り敢えずは元気のつもりです。今も自慢は、口先と頭の毛です。この齢になって、パソコンを買い替えました。その折、訪問設定の方との対話。頭を下げたままでの設定のやり取りの中、PCの対話でなく、頭髪のことが中心でした。』


髙橋 保博先生<昭和63年~平成3年>
 奈良では、今年は桜が例年より遅いようである。例年なら、3月末には散ってしまい、入学式には間に合わないが、今年は3月末でも五分咲きぐらいである。新入生を迎えてくれそうである。
 日本で生まれ育った者なら、誰しも桜への思いは強いものがあろうが、開花を今か今かと待ちわび、桜の下で宴を張るのも日本で生まれ育った者ならではのものであろう。
 芭蕉に『さまざまな事おもい出す桜かな』という句があるが、この句は、芭蕉が藤堂家に仕えていた時の思い出を桜に託して詠んだものである。淡々とした句ではあるが、尽きせぬ思いが漂っている。
 桜は、人生を振り返らせてくれる。日常の忙しさに取り紛れ、自分を振り返ることの少ない昨今ではあるが、今一度、自分を反省するよすがともなるものである。
 悔いが残る日常にあって、自分を振り返ることの必要性を感じる昨今である。


竹内正己先生<平成11年~平成22年>
 再任用を終えて3年目になります。
 退任後は博覧会建設現場のインフラエンジニアにでもなろうと職業訓練校を終了したのですが、現実的には岸和田の高等学校に情報関係の非常勤講師のお呼びがかかったので、そちらに週4回通っています。情報科にあるプログラムの授業を持ちたかったのですが、相変わらずのExcel,Wordの授業を担当しています。今年は情報処理ビジネス部門の1級を担当できるようになり楽しみにしています。大学受験の共通テストの情報と出題範囲は異なりますが、アルゴリズム的な問題ではこの検定の1級のほうが難解ではないかと感じています。
実兄が三菱金曜会の議長をつとめる会社の社長・会長を勤め、今年4月からは取締役特別顧問とのこと、私はお金はありませんが、いつでもやめれると思うと気が楽です。




船城 英教先生 <平成11年~平成22年>
 ウォーキングテストについて述べます。
 晩秋のころ、山の辺の道(桜井~天理)、信貴山・平群の里・生駒山(枚岡神社発~)、摩耶山等を順番に歩いていたと思います。いずれも現地集合、現地解散で各関門を順々に通っていく方式でした。生徒が自主的に判断して行動している素晴しい行事でした。このウォーキングテストは旧制東商業学校時代からある行事です。先輩方からの伝統を引きつぎ皆さんは楽しく頑張ったと思います。これだけの長い距離を事故なく毎年実施出来たことは、凄いことだと思います。私の高校生時(新制26期)には、奈良柳生街道、池田五月山~箕面勝尾寺、生駒山~信貴山でした。
 皆様もこれからもウォーキングテストの時の様に、元気よく歩いて行きましょう。 


玉井 昭先生<平成11年~平成14年>
 1999年・2000年・2001年と20世紀から21世紀にわたって三年間東商にお世話になりました。私が東商の名を知ったのは中学二年生の時だった。同じ中学校に一緒に通っていた友が家庭教師をつけ東商を目指して勉強するとのことだった。その名門である東商業高等学校に四十数年後に勤めることになった。在職中、横浜高校が甲子園に出場し、友情応援を校長さんから要請され、暑い中吹奏楽部員と一緒に甲子園球場で応援した。出場していた「平成の怪物」松坂大輔投手も2021年に引退し、松坂時代も終わった。
 今、私は八十歳半ばに近づいている。在職中、同窓会が学校創立80周年を記念し大阪城天守閣の近くに記念碑の設置と松の木三本を植樹された。その植樹に立ち会えたのが思い出として残っている。今は、卒業生の皆様が朝のラジオ体操の集合場所として利用されていると聞いている。昔、老人は引退し隠居生活を送ったそうだが今はパソコンやスマホのAIやyoutubeと対話したりしていると一日が直ぐに過つ。現役の時より国内・国際情勢に詳しくなることもある。
 卒業生の皆様が健康で過ごされますよう祈っています。


市田 淳先生<平成13年~平成14年>
◆変わりゆく商人の街「船場」
 4月初め、20年ぶりに東商跡地を訪ねました。慣れ親しんだ堺筋本町駅3号出口より徒歩3分、白亜の校舎があった辺りには地上30階建てのタワーマンションが聳え、またプール辺りには屋上駐車場を備えた大手商業施設が営業していました。建物沿いに裏に回ると東商会館の跡地には区が管理する文化教室「船場浪華会館」が建てられ、記念碑が移設されていました。当時、学校周辺に軒を連ねていた繊維商店は見当たらず、レストランや中層マンションに変わっていました。唯一学校前の「繊維会館」を見かけることができました。
  ネット社会が進行する現在、ビジネス形態が多様化し生活様式も変化していきます。正しく現在の姿なのです。これまでの船場から「いのち輝く未来社会へ」歩み始めたのでしょうか。



玉岡 照宏先生<平成19年~平成21年>
 私が退職をして、早や10 数年が過ぎました。今春の大阪の公立高校の志願者状況、とりわけ商業高校は 極めて厳しい状況になっています。また、公立高校入試の単願制を見直し、併願とすることも検討されるとか。一 層、選別・学力格差が生まれ、特色化が失われていくことが懸念されるように思われます。
 ネガティブな話はこれぐらいにして、私の趣味というか、近況を紹介します。以前にも書きましたが、デジカメをもって週に2回から3 回は写真を撮りに 出かけています。 色んな写真が沢山あります。 昨年、孫からすすめられてインスタグラム「おっさんのデジカメ街散歩」を開設して、とり貯めた写真、最近撮った写真をアップしています。 数は少ないですが、全く知らない人が「フォロ―」してくれたり、「いいね」を付けてくれたりします。見てもらえていることに、ほくそ笑んでしまいます。 もしよろしければ、皆さんも私のインスタを覗いてみてください。


小島 成起先生<平成21年~平成23年>
 令和4年3月に42年間勤めた大阪市を退職し、大阪商業大学の広報入試課にお世話になって4年目を迎えます。私の東商での思い出の1つに、大阪の商業高校が集って開催した合同販売実習「ええもんばっかり市」があります。このイベントでは、西区江戸堀三丁目の老舗「江戸三・大和屋」にご協力頂き、同店の「浪速いなり」をヒントに企画をした商品を販売し、好評を博したことです。昨年、私はこのお店のご主人から依頼を受け「食育活動」のお手伝いをすることになりました。大阪市立の小学校では「食育授業」を実施、中学生に対しては職場体験を行い、PTA協議会の行事では「親子調理体験」を行うなど「食の安心安全」に関する啓発活動にアドバイス等をさせてもらっています。
 東商で得たご縁で、今も大阪市の教育に関われることに喜びを感じています。

訃 報 山合  健一先生
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安原 敏夫先生<昭和42年~昭和51年>
 高校卒業と同時に証券会社に就職して、経理部に配属され、楽しく4年間会社に勤務しました。証券外務員になりたく資格を取ったとき、相場は人間の心理で動くことを知りました。
 証券不況のために会社を依願退職して大阪市立の商業高校に商業科教員として転職しました。伝統のある東商に異動できてとても嬉しく思いました。東商は活気があり、部活動もとても活発で対外試合も実践があって充実していました。ウォーキングテスト、遠足、体育祭、文化祭などは張り合いがあり楽しい思い出を沢山頂きました。
 同窓会はすこぶる熱心で、出席したとき、当時のことがさわやかに懐かしくよみがえってきます。
異動の府立高校で社会科を担当しましたが、必修クラブでは算盤を担当しました。30人のクラブ員と久し振りに算盤の感触を楽しみました。
 定年退職後は、信託銀行、大学入試広報課を経て、小学校「いきいき」に勤めて児童と遊び語らい楽しく過ごしました。


浅利 守光先生<昭和58年~昭和63年>
今年卒寿を迎えます。当人は当たり前の如く今まで通りのつもりですが、周囲からは、半人前以下、四分の一人前扱いの昨今です。今もウオーキングのつもりで菜園に出かけていますが、自覚してみますと、トボトボと出かけ、トボトボと作業?をし、トボトボと帰っているようです。





松江 靖朝先生<昭和60年~平成7年>
 令和5年、今年の夏は、猛暑というより酷暑の毎日でした。そして期待していた秋はあっという間に通り過ぎ寒すぎる冬の到来でした。素晴らしい四季の有る日本から二季制の別の国に来たようです。
 世界に目を転ずると、例えば、ロシアのウクライナ侵攻・イスラエルのガザ地区攻撃と色んな地域で色々な争いが絶えません。アメリカではトランプの再来予測で自国第一主義優先で世界の平和や気候変動は、二の次という風潮が世界中で懸念されています。これからの社会は、世界は、日本はどのように変遷してくのでしょう。心配が山積しています。
 私個人も体中の至る所にガタが来て難儀しています。白内障でもない、緑内障でもないと眼科の先生からは言われているのですが、大変見え難いのは事実。加齢だから仕方がないのでしょうか。しばらく前に書いた書に『白馬(はくば)芦花(ろか)に入(い)る』と、いうのがあります。一面に白い蘆の花の中に、白馬が入ったらまるで見分けがつかないが、蘆花と白馬は別のもの。類して等しからず。似たように見えても同じものではないのですから、丁寧に気持ちを説明する事が大事なのです。丁寧に現実を分析していく事が大切なのでしょう。
 毎日1時間妻との散歩。月3回の詩吟教室での練習。これらを大切にしていく事が、日々の営みを大事にする事に繋がるのでしょう。
 支離滅裂ながら、最近思う事を、した貯めました。
 最後に、皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。


髙橋 保博先生<昭和63年~平成3年>
 令和6年(2024年)の干支(えと)は甲辰 (きのえたつ)である 。
 十干は草木の発生、繁茂、成熟、伏蔵の過程を十段階に分かけて名付けたものである。           
十二支は、本来は正月は子、二月は丑と言ったふうに十二か月の順序を示すための単なる符号であった。しかし、そこに人々は期待を込めて動物としてのイメージを膨らませたのである。
 令和6年の干支の「甲辰 」(きのえたつ)についていえば 、「甲」は種子がまだ厚い皮をかぶっている状態をさし、「辰」は、陽気が動き生物の活力が旺盛になる状態を示している。このことは、令和6年が明るい時代へと躍動できる年であることを暗示している。 政治や経済、人々の生活などが明るい世界へと抜け出せる年であり、 躍進が期待できる年であることをそれとなく示している。
 我々は、令和6年に大いに喜びを感じたいものである。


米川 進先生<平成5年~平成19年>
 東商同窓会の皆様、如何お過ごしでしょうか!お伺い致します。私は昨年、八十路(80才)を迎え、毎日元気に過ごしております。
 東商業高校を離れてから早や17年。その内の14年間は大阪市の小学校でのいきいき活動で子供達と宿題等の勉強や校庭での遊びなど楽しく過ごさせて頂きました。3年前に全て退いて家での生活が続いております。
 今は午前中にその日の夕食の献立を考え、買物に行きます。冬の季節はあまり外には出ませんが、年に2~3回、先生方や卒業生の教え子達と同窓会をやっております。昔ながらの話に花が咲き、時間の過ぎるのも忘れます。
 新しい年を迎え、優雅な人生を歩んで行きたいと思います。これからも前向きに生きたいと思います。
 最後になりましたが、東商同窓会の発展と皆様方のご健勝とご多幸をお祈りしております。


市田 淳先生<平成13年~平成14年>
 「これまでの歩みとこれからの人生」
 私は今年の3月をもって大阪市のいきいき活動室の退職を迎えます。学校の定年後第二の職場として早くも15年が過ぎました。この間、東住吉、生野、都島、淀川各区8校のいきいき活動室を経験してまいりました。とりわけ都島区友渕分校小学校は、学年9クラス規模であり、一日100名を越える児童が参加しておりました、地域からの協力もあり、毎月のお誕生日会にボランティアの方にハーモニカ演奏をしていただきました。楽しい思い出のみならず、活動中の怪我や骨折などもありました。冬休み中、外出もできず、家の中にいた児童にクリスマスにケーキを届けたこともありました。活動のモットーは常に子どもの気持ちに寄り添うこと。当初、東住吉区のいきいきに勤めたころ、校区でハーモニカを教えていただける機会がありました。このことがきっかけとなり、生駒市でハーモニカ同好会に参加し本格的な趣味となりました。いきいき活動でのハーモニカ演奏のみならず、東住吉区の老人ホームで演奏ボランティアとして月1回、訪問していましたが、コロナに被災し、訪問演奏もできなくなりました。
 80歳からの人生の歩みとして、「子どもたちに夢を!」いきいき活動室でのボランティア活動。ハーモニカや篠笛さらにパーカッションを加えた演奏活動をしたいと夢に描いています。


竹内 正己先生<平成11年~平成22年>
 令和5年3月に退職して以来、職業訓練を活用して情報関連の会社が運営しいる専門学校でLinuxのディストリビューションであるUbunts やCisco機器によるネットワーク、JavaScript、Pythonのプラグラム言語など、今まで勉強したかったクラウドやインフラ・Webエンジニアに関する学習をしています。簿記や事務作業が自動化され、従来での商業高校の価値が見直される中、就職した会社でWebページの作成や保守・管理ぐらいはできるHTMLやCSS、さらに欲を言えばフロント・バックエンドの知識が必要ではないかと思っています。



船城 英教先生 <平成11年~平成22年>
 冬季体育授業風景。どこの学校でも、ほぼ長距離走が実施されます。東商では学校を飛び出し大阪城まで中央大通りを東に走り、大阪城内の教育の塔付近に集合し、そこから外堀沿いを東に走り玉造口につながる坂を駆け上がり、城内に入り、梅林を右に見ながら内堀沿いを西にどんどん進み豊国神社・修道館を左に大阪城天守閣を右に見ながら太鼓櫓跡を通り、西の丸庭園前を走り大手門を駆け抜け下り坂を走り、また外堀を左に見ながら出発点の教育の塔付近にゴールします。その後すぐに堺筋本町南久太郎町にある学校に走って戻り、次の授業を受けました。皆よく頑張りました。
 東商ジャージで寒い中頑張った気持ちを忘れず、これからも皆さん元気におすごしください。


兵頭 英樹先生<平成18年~平成19年>
 東商卒業生のみなさん、お元気でしょうか。私が東商で勤務した平成18年から19年の後、府立高校で教鞭を執っていたのですが、府と市の教育委員会が統合した影響で府市間での転勤が行われるようになり、令和5年4月から淀商業高校で勤務することになりました。異動初日に職員室のドアを開けるとそこには10数年ぶりに顔を合わせる橋口先生がいて、とても心強い思いで働き始めることができました。府と市は校務運営のやり方やシステムの違いが多く、府から転勤してきた他の先生方も、受け入れる市の先生方もその違いに戸惑いながらお互いにすり合わせて学校運営に当たっておられます。私は東商での経験がある上に橋口先生がいることで、他の方々よりもスムーズに馴染むことができたように思います。あと、まだ数年は現役で教壇に立とうと思っています。東商卒業生の皆さんもそれぞれの場で頑張っていってください。


玉岡 照宏先生<平成19年~平成21年>
  昨年は、WBCからはじまり阪神タイガースの日本一や大谷選手の移籍問題など野球に関するニュースで盛り上がった。なかでも、38年ぶりの阪神タイガースの日本一は、私にとっても強く印象に残っている。
 私が他職から一念発起 (?)し大阪市教員として採用されたのがこの年、昭和60年であった。優勝のその日同僚の先生方と道頓堀に繰り出し、祝杯を挙げ周囲の人たちと意気投合して「六甲おろし」を大熱唱したことが思い起こされる。若かったというべきか!既に古希を越えたが、まだまだいろんなことにワクワク、ドキドキし、また時には小さなことにもイライラしたり、腹が立ったりする。彼の孔子は言う。「我七十にして己の欲するところに従えども矩りを踰えず」と。善悪の壁を犯すことはないが、自分の感情や欲を完璧にコントロールすることはまだまだのようだ。しかし、未熟だからこその充足感はある。
 今、勃発している二つの戦争が一日も早く終結し世界平和が訪れることを望むとともに、また今年から続く「アレのアレ」や大谷選手の活躍、パリ五輪、大阪万博など興味津々。己の趣くままに生きることも健康長寿の秘訣かもしれない。
 
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山上 仁士先生
私は元気です。88歳になりました。皆さんによろしくお伝え下さい。







笹月 繁先生<昭和39年~昭和49年>
 私は昭和39年から10年間、保険体育科教員として在籍し、お世話になりました。当時24歳の若者で、新設された大阪城・市立修道館剣道講師との兼務でした。東商の第一印象は、「狭い」でした。グラウンドは校外にあるのかな、と思ったことでした。然しながら生徒達は活気に満ちており、部活動は活発で、学校行事も、ウォーキングテスト、寒中登山をはじめ文化祭等多彩でした。私は剣道部の指導が中心でしたが、同世代の先生方との交流で、教員としての資質を戴いたように思います。鬼籍にはいられた方もありますが、高城先生とは今も便りの交換などで高誼を戴いております。剣道部員の一人として指導した船城君が、後年教員として着任したという嬉しい報告もありました。私が剣道八段に合格した折りは「笹の葉会」というOB会を作り祝してくれました。私は間もなく83歳ですが、週1回修道館講師として稽古に励んでいます。御校の益々のご発展を祈念致します。

 
安原 敏夫先生<昭和42年~昭和51年>
 天神橋筋6丁目にある、「大阪くらしの今昔館」の催し「なにわを語る明治・大正・昭和の絵葉書」を見学して、街の風景、暮らし、文化等絵葉書に表現された大阪の姿に触れ認識を深めました。
 歴史と伝統のある東商で楽しく勤務でき、生徒の皆さんから元気を貰いました。部活動も活発で活気があり、同窓会も盛んで温かく接して頂きました。共有した懐かしい楽しい思い出は誠に貴重です。
 同窓のよしみは人と人とを強く結びつけます。集まりの中にも、それぞれ新しい発見があります。それが同窓会の良いところです。顔を合わせるにつれて、きっと得難い間柄になれます。そして培われた人間関係は、自己を磨く原動力となります。
 皆さんとの再会を楽しみにしています。第9期の住江勇雄さんと田代紀世さんが同じ交野市内にいらっしゃいます。心強く思っております。


北山 武司先生<昭和56年~平成2年>
 創立100  周年記念祝賀会、無事に開催されましたことを心よりお慶び申し上げます。と言ってますが、完全に失念?しておりました。知ったのは、SNSです。卒業生の子が私のSNSに知らせてくれました。卒業生の「子」と言っても、私-14歳かと・・ゴメンネ♪最近SNSは、悪いことに使われることもありますが、こう言う便利な道具でもあります。 
 最近の行動としては、ほぼ週6日のジム通い。やってるのは、中級のエアロビクス、ダンス系、ステップエクササイズ。エアロビクスは、空間認知能力の維持にいいかと・・ダンス系と言っても「社交」じゃないです。ダンスミュージックに合わせて楽しく踊る。ジムに行かない日は、クッキングスクールでパンの修行をしていますね。来月には白馬でスキー!たぶん2週間くらい行きます。あとは、旅行。×○割なんやらで、ここ3年間で、たぶん42泊。これからも、頑張って遊びます。と言っても時々「あたま」も使いながら・・


浅利 守光先生<昭和58年~昭和63年>
 米寿になりました。当人は、今まで通りのつもりですが、周囲からは、一人前の扱いを受けていない昨今です。思い当たる節?指先の動き、袖口のボタン掛けに些か時間が…。
 菜園で聞く鶯の声、ホーホケキョの清音でなく、時には、トッポジージョの濁





松江 靖朝先生<昭和60年~平成7年>
 学校という組織をリタイヤーして5年経過。まだ夢の中で簿記の授業をする位だから、『先生』が天職だったのでしょう。今では、眼科・耳鼻科・整形外科の先生と仲良しになっている自分を見て、愕然としています。
 毎日1時間、妻と石川の桜堤を散歩。又、月3で詩吟教室。月2で書道の仲間との会合。その後が又、皆の楽しみの場となっています。そんな毎日ですが、書家の石飛博光さんの『ほっとする禅語70』で、なるほどとほっとする自分に納得しています。一つ紹介しましょう。『善をも思わず悪をも思わず』なぜどちらかに決めようとするのですか。善悪を判断しようとするから、悩み、迷うのです。良い悪いの判断自体が、場所・時間・歴史的経過等の結果なのです。二元的な考え方からの脱却が大切なのです。ほっとしたゆとりを感じられたのではありませんか。気持ちに自信が生まれませんでしたか。皆さんも、『ほっとする禅語70』を読んで下さい。


髙橋 保博先生<昭和63年~平成3年>
 令和4年12月12日の「漢字の日」に、日本漢字能力検定協会より発表された今年の漢字は「戦」とのことである。ロシアのウクライナ侵攻、新型コロナ、物価高などの暗い話もあるが、サッカーW杯での日本代表の活躍、MLBの大谷翔平選手の活躍などの明るい話題も選ばれた理由とされている。第2位は、「安」、第3位は「楽」である。「安」や「楽」などが第1位になるような世の中になってほしいと思う。「安」には、安心、安全、安泰などの語が浮かぶし、「楽」には、楽園、楽天、音楽などの語が浮かぶ。
 何かにつけて暗いイメージが付きまとう世の中だが、人の心や暮しが安定して、取り残されたりする人のない、人々に優しい、労りのある世の中になってほしいと願う昨今である。
 東商同窓会の今後のご発展を心より祈っております。


米川 進先生<平成5年~平成19年>
 令和5年、新しい年の始まりです。皆様方如何お過ごしでしょうか。お伺い致します。私はあと半年で八十路(満80歳)を迎えます。よくぞここまで生きてこられたなと思います。あと何年生きられるか分かりませんが、その日まで生命の続く限り頑張ってゆこうと思います。仕事を退いてから1年9か月、何する事なく毎日を送っております。今、寒い時期、動くことが出来ず、買い物以外昆虫と同じく冬眠生活を送っております。
 日本の季節にはいろいろな四季があります。春には桜があり、夏には鳥のさえずりを聞きながら、一人で散策をしています。近くには長居公園があり、私を慰めてくれます。秋には紅葉が美しく鮮やか色と戯れるも良いでしょう。
 最後になりますが、皆様方のご健康とご多幸を祈念し、同窓会のますますの発展を期待し、終わりとさせて頂きます。


船城 英教先生 <平成11年~平成22年>
 「昔を偲ぶ錦城の~」この歌皆さん覚えていますか。東商校歌です。赴任初年4月新1年合宿の体育館で私が歌い(悪声でしたが)皆さんが歌ってくれました。以来在勤中は毎年一緒に歌わせてもらいました。楽しい思い出です。皆さんに感謝します。行事の度に大声で歌ってくれました。ある学年では応援歌「生駒にかかる雲はれて~」も歌ってくれました。嬉しかったです。校歌・応援歌には皆さん先輩方の思いがつまっています。私も最初に校歌・応援歌を教えてもらったのは屋上でした。歌には不思議な力があります。大声を出して歌うと元気になります。一人でも良いのですが、仲間と歌うと何故か気分が高まります。しんどい時、ピンチの時は力づけてくれます。長居球技場・南寝屋川公園会場・中央体育館と体育大会会場は変遷し、その都度大変でしたが、歌って頑張ってくれました。皆さんもこれから時々思い出して口ずさんでみてください。
 皆さんのご健康とご多幸をお祈り申し上げます


玉井 昭先生<平成11年~平成14年>
 リーガロイヤルホテルで思ったこと…
去年は、学校創立100周年記念祝賀会があり、リーガロイヤルホテルで盛会に実施された。久しぶりの大阪だった。このホテルには縁があり、東商業高校に赴任する数年前に、二年連続して正月に行われる大阪新年互例会に出席を要請されホテルに行った。政界・官界・財界のお歴々の互例会である。驚いたのは、ホテルの駐車場と周りの道路は、運転手付きの黒塗りの高級車が取り巻いていたことである。会には見覚えのある国会議員・知事・市長がおられたが、他はしらない人ばかりであった。出席する意味が理解出来ない会合はつらいものである。考えるに、大阪市が全国に先駆けて大規模なインターネットシステムを構築導入したから?それとも大阪市内の小・中・高等学校のネットワークシステムを80億円の予算で構築するのに携わったからか?当時の文部省・郵政省・通産省の会議などに出たためか?去年の祝賀会のように、目的がはっきりしている会に出席するのは嬉しい。
 今度は110周年の出席を目指すぞ!
 校歌を大声で歌うぞ!


玉岡 照宏先生<平成19年~平成21年>
 近況です。数年前より趣味の一つとして、デジカメを携え市内の顕彰碑近郊の寺社・塔めぐりをしています。訪問前に下調べをして行くとまた趣の違った景色を味わうことができます。帰ると撮り溜めた写真にコメントを付し、ファイルに整理する。そして、また次の訪問先の計画を立てるのです。もう一つ、昨年から俳句をやってみようと思い立ちました。きっかけは、「プレバト」というテレビ番組です。講評者の添削が素晴らしく納得のいくものでした。早速、投句できるサイトをみつけ応募してみました。兼題は『日焼』で、私の句は「麦のごと日焼し孫と虫かごと」です。ある金融機関の募集でしたが、「入選」となり驚きです。他にも「鰯雲ふるさと墓参母はるか」などを投句しています。まだまだ初心者レベルですが、心豊かにして味わい深い句を作っていきたいと思うこの頃です。


小島 成起先生<平成21年~平成23年>
 創立100周年記念祝賀会では、会長様ならびに役員の皆様には大変お世話になりました。コロナ禍でしばらくお会いできなかった方々のお顔を久しぶりに拝見することができて、たいへん嬉しかったです。
 私は32年間お世話になった大阪市を令和4年3月末で退職し、4月より自宅近くの大学で広報(学生募集)のお仕事をしております。私生活では小さな庭と貸農園で野菜を育てながら、週に数日のペースで高校生を相手に経済学や経営学を学ぶ楽しさを説いております。生徒一人一人の思いや個性の違いを踏まえて、どのように伝えたらいいか考えることにやり甲斐を感じながら、日々変化の中で過ごしております。
 また、皆様にお会いできる日を楽しみしております。
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師の方々から、近況をお寄せいただきました。恩師の方々のご健勝と益々のご活躍をお祈り申し上げます。

安原 敏夫先生 昭和42年~昭和51年
 4年勤務した日興証券をやめて、商業科教員として大阪市立の商業高校に勤務しました。異動で東商にお世話になり、生徒の皆さんから元気を貰い9年間楽しい時間を共有しました。 社会科教員として府立高校に異動したときには、1学年12学級にびっくりしました。 定年退職後、三菱信託銀行、関西大学入試広報課勤務を経て、大阪市立の小学校「いきいき」に勤務しましたが、出退勤途上での新型コロナウィルスの感染を恐れ、令和2年5月末に小学校「いきいき」をやめて、フリーとなりました。
 東商での出会いは、誠に貴重でした。東商での思い出と謙虚な気持ちを持ち続け、自分の良さを磨きたいものです。
 同窓会での再会を楽しみにしています。


浅利 守光先生 昭和58年~昭和63年
   今年、米寿を迎えます。モウ?なのか、マダ?なのか、その感覚はほとんどありません。
 昨今のコロナ禍、「何とかならないのか」が口癖のステイホーム。「言」も「動」も封じられ、痴呆症か認知症がより進んでいるように思えます。マスクは眼鏡・鼻詰まり症にとって、大の苦痛。これまた、何とかならないのかの日々を、過ごしている昨今です。菜園へはマスク無し、ハレバレとします。
 振り返りますと就任時、前年新築の校舎、高等学校では希有の高層8階、商業科として、最新の機器・授業内容も革新でした。屋上から見下ろすと、眼球がクルクル。懐かしい東商が、今も此処に在るようです。


髙橋 保博先生 昭和63年~平成3年
 大阪市立東商業高等学校(現大阪ビジネスフロンティア高等学校)が、昨年創立100周年を迎えられたとのこと、真におめでとうございます。心よりお喜び申しあげます。100周年と言えば、人生でいえば百寿を迎えたということで、全くおめでたいことです。100年前と言えば、大正9年(1920年)にあたり、大阪市立東区甲種商業学校として設立開校されたのでした。
 それ以来100年もの長きにわたり、学校を継承するには、学校関係者及び卒業生の皆様の並々ならぬ努力と母校を愛する気持ちが不可欠であったと思います。関係者の皆様及び卒業生の皆様に心からの敬意を表します。
 時代の流れの中で、校名を変更し、規模を変えながらも、その伝統と礎を後世へと引き継いでいくには、並々ならぬ母校愛と継承への努力が大切です。
 今後の御校のますますのご発展を心より祈っております。 


市田 淳先生 平成13年~平成14年
 〜子どもたちに夢と希望を〜
 現在、私は都島区内の小学校「いきいき活動室」に週3日勤めています。年齢も喜寿に達し、これを機に3月で停年を考えています。本事業は「大阪市教育委員会」が20年前、市内約360校の小学校で放課後の空き教室を使用しスタートしました。主に地域役員を指導員に採用し、保育は公費で負担するという画期的な事業でありました。その後、子育て支援の高まりから子ども青年局の所管となりました。私は63歳で東住吉区内の小学校が初任校になり、その後5校異動しました。いずれの地域においても「いきいき」と地元の結びつきが強く、お花見会や地域行事等で交流がありました。しかし活動室では子ども間のいじめが問題になり夜遅くまで話し合いをしたことや指導員の不適切発言により保護者に謝罪したこと等。また活動中に骨折し病院に駆けつけたこと等ありました。近年、共働き家庭や塾通いにより子どもを取り巻く環境は大きく変わってきました。放課後教室は地域スタッフや大学生指導員との交流を通して学校とは違った心の豊かさが形成される場として期待されています。
 長いコロナ禍のトンネル、その先に明るい日差しを浴びた子どもたちが待っています。私は今後も音楽活動による支援を続けたいと思っています。


船城 英教先生 平成11年~平成22年
 東商生が創った八十周年記念歌について述べます。平成12年度の団長達が作詞をしました。作曲は音楽講師の先生でした。
周年式典や卒業式に全員で歌いました。
 時代から時代へという記念歌でした。東商生が自分達で創りあげた素晴らしい記念歌でした。歌詞通り心の中に永遠に残ってくでしょう。





玉岡 照宏先生 平成19年~平成21年
  2年間延期となっていた東商創立100周年記念祝賀会が開催される運びとなり、誠にうれしく思います。盛大に開催されることを心待ちにしております。
 いま本市の高等学校は、令和4年4月より大阪府に全て移管されます。同時に南・西・扇町総合の3校が統合され、府立桜和高校として開校します。これらを前進・発展と捉えるのか。いや、私にとっては、大阪の高校がどんどん遠くなりゆく気がして寂しい限りです。まさか、このような時が訪れようとは想像だにしませんでした。
 こうした中、東商同窓会が母校の閉校後も精力的に活動を続けておられることに、心より敬意を表します。また卒業生の皆さんが母校の伝統訓である「士魂商才」を胸に、各方面で活躍されていることと思います。今後とも、「東商は永遠なれ!」を合言葉に、私も可能な限り皆さんと共に、同窓会の集いに参加させていただきたいと思っています。

 
恩師短信(順不同)
石井 雅宏先生
  後期高齢者になったのを機に仕事を引退しました。半世紀以上仕事をさせていただいたことに感謝です。

榎並 章先生
  今年の5月で94歳になります。要介護認定5を受け、ホームにて生活をしております。顔色もよく元気にしております。


小島 成起先生
  令和4年3月末をもって現在の大阪市立神路小学校の再任用校長を辞する予定です。東商の創立100周年を皆様と祝うことができるのを楽しみにしております。

笹月 繁先生
  毎水曜日は大阪城・修道館、日曜日は地元大山崎剣道教室で剣道の指導、稽古に励んでおります。82歳、もう少し頑張りたいと思う今日この頃です。

白川(榊原)俊義 先生
  喜連寶圓寺の住職に入って16年。地域の皆さんと続けてきた喜連村史の会の成果が、1月26日~3月21日まで、大阪歴史博物館の特別展となり発信いただきました。東商80年史を50歳で書いたのが初めての全くアマチュアの研究成果です。

杦本 多佳史先生
  令和3度年より大阪市立高等学校長として勤務しております。商業教育を離れてしまい、また4月から府立となるので少しさみしいです。

中井 晴子先生
  週2回ジムでストレッチやウェイトトレーニングをし、他の日は、バードウォッチングしながら風土記の丘を3~4㎞ブラブラしています。

前田 俊一先生
  今年後期高齢者の仲間入りをしますが、何とか元気に過ごしています。今は地域のボランティアに取り組んでいます。

松江 靖朝先生
  眼科・内科・整形外科等殆ど一日中通院という状況です。行けば一日仕事となり大変です。としはとりたくないものですね。

三宅 秀司 先生
  東商が中央区の久太郎町より現在の天王寺区に移転してから10年が経とうとしています。その後同窓会には、なかなか参加できませんでした。現在は主に高校生の陸上の試合の審判と野菜作りをしています。教員は60歳で辞めました。

山内 充左右 先生
  こんにちは、ご無沙汰してます。最近は脚腰の痛みと記憶力の衰え、年のせいもある?充分なる休養と適当な運動。週3回、3時間のグランド・ゴルフ、時折の散歩・買物で外出する事も時折!

山上 仁士先生
  87歳になりました。元気です。

 
訃 報

            中川勝義先生
       岡本健一先生
       藤原正明先生

                    
                                                         ご冥福を心からお祈りいたします。
 
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恩師の方々から、近況と創立100周年にも思いを馳せていただきました。恩師の方々のご健勝と益々のご活躍をお祈り申し上げます。
 
春木重憲先生 昭和36年~昭和52年

 100周年をお迎えになり、誠におめでとうございます。
 東商は私にとって第2の故郷、思い出の詰まったかけがえのないところです。大学卒業後すぐ東商に赴任し、西も東もわからぬまま只情熱だけで駆け抜けた10余年でした。温かい先輩や同僚に導かれ、素晴らしい生徒らに助けられました。何度もお手上げ状態になりながらも「本気でぶつかれば、必ず思い出は通じる」と思えたのも東商でした。
 今後も東商の同窓会には出席したいと思っています。
 今、私は地域の観光ボランティアガイドと年寄りのテニスを楽しみながら元気に過ごしています。
 

笹月 繁先生 昭和39年~昭和49年

 私は昭和39年10月から49年3月までの10年間、保健体育科教諭としてお世話になりました。当初は大阪城に新設された修道館剣道講師と兼務でした。狭い敷地に小さなグラウンド、小さな体育館。驚きでした。修道館兼務が解かれてから、剣道部指導にも集中出来るようになり、市立大会、府大会等で一定の戦績をあげられるようになりました。教え子の1人、船城君が後年、教員として着任と知り、嬉しく思ったものです。府立摂津高校へ転出後も、船城君が中心となって、東商・摂津卒業生合同稽古を毎年正月に行っております。当時の同僚、元先生達と年一度の懇親会も続き有り難く思います。創立100周年を祝し、益々のご発展をご祈念致します。


岩前宏明先生 昭和41年~昭和57年
 長年の教師生活を振り返ると、東商に着任当初は、未熟な自分が良い授業をしようといろいろと工夫したことや、本当に理解させ得たであろうかと自問自答したことが思い出されます。生涯、教育の仕事に邁進できたことは幸せでした。
 ところで人を育てることが教育の使命ですが、教師は、否応なく自分の生きる時代の要請も背負っていかなければなりません。
 教師生活の後半は管理職として学校改革の問題に正面から取組まなければなりませんでした。苦しい時もありましたが、今となっては懐かしい思い出です。いつの時代も学校現場は時代の要請にも向き合いながら生徒の成長を見守っていかなければなりません。後輩の先生方の健闘を祈るばかりです。
※近況報告はいつもと同じですのでカットしました。「元気です」


安原敏夫先生 昭和42年~昭和51年
 創立100周年を迎え、誠におめでとうございます。
 常に過去を振り返りつつ、学びよりよい明日を目指して歩んで行くことがとても大切です。人生いくつになっても生きがいある暮らしはこれからです。からだは、いかに健康を持続できるかが課題です。食べ物も人間関係、運動、社会生活と同様に全体の一部に過ぎません。人との繋がりが心の支えです。相互の人間関係は自己を磨く原動力です。生きる目的は幸せになることです。1人で幸せになることはできません。交流の中で幸せを感じることができます。同窓生の人生経験は東商同窓会の活力になります。
 週3日、児童いきいき放課後事業に係わり大阪市立の児童から元気をもらっています。


松尾三郎先生 昭和56年~昭和62年
 母校創立100周年記念祝賀会、おめでとうございます。
 本校が100年の栄光の歴史の中で築きあげてきた伝統の中核は、建学の精神「士魂商才」にみられるごとく「人間として行うべき道、即ち人倫の道の実践」と「豊かな感性の上に築かれた企業経営の知性」とを両輪として求めたものであり、普遍の商業教育の理念であると思います。
 会員諸兄姉におかれましては、母校で培われました「輝く叡智」と「強く豊かな心」と「より健康な体」を持たれまして、世界平和の為に貢献されますよう祈っております。
 なお一層の絆の深まりを念じつつ。
「老賛賛」九十路へと旅より 
 来し方や 思い尽きせぬ ここのそ路 碧空遙か 老い静謐(しずか)なり


髙西 正先生 昭和56年~平成12年
 創立100周年、おめでとうございます!! 
 私の今は中学1年生の孫の野球の送迎と応援、全日空のマイル修行、週1?2回のボウリングと4月以降の週1?2回の船頭業です。昨年、10 月に80歳になり地獄か天国が近くなりましたので身体に気を付けて残り少ない人生を愉しみたいと思います。
 今後の目標は孫の野球の全国大会(出場は現在未定ですが昨年は出場し埼玉、大宮まで行きました)の応援、年3回以上の欧米旅行、ボウリングのアベレージ170(現在155)と週1~2回の舟漕ぎなどです。
 それから名刺広告にあるTower   Knives   Osaka よろしくお願いいたします。


北山武司先生 昭和56年~平成2年
 創立100周年と聞いて 、 西暦だと1920年だけれど、和暦だと「いつ??」と言うことになり、計算=Excelの出番。大正9年と判明 。そう言えば、亡父は大正7年生ま れだったな・・・妙に遠さと近さが同居するような感覚になりました。残念ながら「東商」は今や統合済み。寿命と言う言葉が当てはまるのかどうかわかりませんが、きっと天寿を全うしたと思います。最近は、ジム通い、クッキングスクール通い、国内旅行、海外旅行、スキーと超多忙の日々を送っていま す。特にここ2年ほどを振り返ると、カナダ2回 、マレーシア1回、スキートータル25日以上、国内旅行10カ所以上、ジム600回以上(1日2回のことも・・)と言ったところでしょうか?そうそう!インスタグ ラムも始めました。フォローもしますよ 。 
https://www.instagram.com/marutaro1206/?hl=ja


石井雅宏先生 昭和57年~平成6年・平成17年~平成19年
 東商業高等学校の創立100周年を、同窓会の皆様、関係者の皆様とお祝いできることは、東商に勤務させていただいた私にとって、大きな喜びです。とは言え、東商そのものは、その伝統と精神を大阪ビジネスフロンティア高校に引き継ぎ、現在は学校としての実態を持っておりません。時代の急激な変化の中で、教育を取り巻く環境が大きく変化した結果ではありますが、寂しさは禁じ得ません。
 さて私自身の近況ですが、古希も過ぎ73歳になりました。気力・体力は年齢相応で、仕事も何とか続けています。そろそろ区切という気持ちもあり、今後のことは白紙です。いずれにせよ、それなりの日々を過ごしております。


浅利守光先生 昭和58年~昭和63年
 100周年おめでとうございます!と残念至極!と同窓会は健全。でも、大阪市立東商業高等学校の名前が・・・。ゴーイングコンサーンと云う言葉が偲ばれます。 
 就任時、高等学校では希有の高層8階建て、新築の校舎で最新の機器が揃い、授業内容も革新のものでした。屋上から下を見下ろすと、眼球がクルクル。
 スクラップへの行進は、原価計算の噺だと思っていましたが、俺のことだと、認識を自覚に高めています。
 歴史探索をと結成した「まほろば歴史同好会」早や12年。パソコンかスマホのグーグルから覗いてみて下さい。家庭菜園は規模縮小。昨夏の酷暑は、曼珠沙華の開花が彼岸に間に合わず、大菊の成長もひと月遅れでした。


山本俊明先生 昭和60年~平成2年・平成8年~平成11年​
 創立100周年おめでとうございます。
 士魂商才の四文字は東商を想起させます。この建学の精神が活かされてほしいと思っています。近々、眼科手術をします。外科は年4回通います。古傷のヒザ病で歩きにくいのでもっぱら読書(歴史物)、テレビを見ています。年相応の暮しです。オール東商の健在を祈念申し上げます。




髙橋保博先生 昭和63年~平成2年
 此の度は、創立100周年、真におめでとうございます。100年の長きにわたり、大阪市の商業教育に尽力されて来たことに、敬意を表すると共に、新しい学校として再出発されていることを大慶に存じます。
 新しい学校として再出発されても、培われて来た伝統と精神は、引き継がれていることでしょう。
 私が、旧東商業高校にお世話になったのは、1988年4月から1990年3月までの2年間でしたが、その間に学んだものは、私の教員としての人生に大きな力となっています。
 今後とも、同窓会が益々発展されんことを願ってやみません。ありがとうございました。
 創立100周年、本当におめでとうございます。


谷口 武先生 平成6年~平成26年
 大阪市の教員として3校を経験しましたが、平成6年に赴任した東商業の20年間が特に印象に残っています。平成7年1月に阪神淡路大震災に見舞われ、プールの水がこぼれる等の被害が出ました。
 在任中の沢山の思い出が浮かびます。長居球技場や中央体育館での体育祭、北海道富良野の修学旅行、志賀高原のスキー旅行、生徒と共に歩いた山の辺の道や飛鳥でのウォーキングテスト等々、思い出は尽きません。
 OBF校舎に移った晩年には、簿記コンクール全国大会に65期生が出場したこと、東商最後の卒業生(66期生)の担任もしました。
 現在70歳を過ぎ、大阪市都島区の小学校でイキイキ活動の指導員として、子ども達と元気に過ごしています。


徳重 悟先生 平成8年~平成21年
 創立100周年おめでとうございます。
 平成8年4月から平成21年3月までの13年間お世話になりました。その間に、様々な役職に携わり、平成9年4月からスタートした新学科の立ち上げにかかわり、数多くの校務運営や学校運営の様々なことを学ばせていただきました。その経験が、その後10年間の教育活動の原動力となりました。
 また、多くの珠算人を輩出した伝統ある東商珠算部に顧問としてその活動に携わらせていただきました。伝統に恥じないように、全国大会出場も数回果たすことが出来ました。東商珠算部で、その育成に携われたことは、珠算人の一人として、大変光栄なことでした。
 現在、私は昨年3月に定年退職をし、再任用教諭として、鶴見商業高校に勤務し、商業教育の一端を担わせていただいています。
 多くの卒業生と関係教職員が集い、創立100周年を祝しましょう。


船城英教先生 平成11年~平成22年
 100周年おめでとうございます。
定年後大阪ビジネスフロンティア高校と鶴見商業高校で剣道部外部指導員として稽古させてもらってます。
 皆様の益々のご多幸をお祈り申し上げます。





玉井 昭先生 平成11年~平成14年
 100周年記念祝賀会に寄せて
 学校近くの花屋さんに朝早く行ったとき、店では全国に商品を発送するため忙しく作業をしていました。それを見て、中央区は今も商業の中心地であると感じた次第です。学校創立80周年式典・祝賀会に出席しておられた大阪市を良く知る雑誌記者の方が次のように述べておられました。”商都大阪”の中心部・旧東区は船場商人で活況を呈し、財力の中心であった。往年のその様な風景の中で大阪市立東商業高等学校の歴史が始まり、優秀な卒業生を多数輩出してきたと。その後90年余を経て、大阪市立東商業高校3校が統合され東商業高等学校の名前は無くなりました。しかし、80周年を記念し同窓会の方が、校名を記した記念碑と三本の松を大阪城天守閣近くに設置し、市当局に寄贈しておいてくれましたので、卒業生や東商業高校関係者が集う場所があり、喜ばしく思っています。この松の植樹式に参加したことが思い出として残っています。令和2年7月19日の100周年記念祝賀会には皆さんと共に懐かしい校歌を大声で歌いたいと思っています。


市田 淳先生 平成13年~平成14年
 「100年の歴史の1ページに感謝!」
 私は平成13年4月、これまでの定時制高校から朝のひかりの眩しい白亜の校舎に着任しました。翌日は地元議員・市関係者・同窓会御歴々ご参列のなか80周年記念碑除幕式が大阪城天守閣庭園で行われました。「士魂商才」に刻まれた重みを知りました。当時、教育委員会では特色ある学校づくりを推進するため独自予算が付けられました。玉井校長先生は「株式買付」を提案しましたが実現には至りませんでした。商業高校らしい案として評価を受けました。また当時スタートしたジュニアインターンシップの実施には橋本会長様のご協力より同窓会事業所をご紹介いただきました。文化祭活性化としてオープニングで和太鼓演奏を行うことができました。これらには進路指導課や生徒会の先生方の並々ならぬ苦労があったことは言うまでもありません。船場の地に金字塔を打ち立てた学校を心の財産としていつまでも残したいと思います。


森本 実先生 平成13年~平成24年
 創立100周年おめでとうございます。
 首席として90周年記念事業に携わらせていただきましたが、時の経つのは早いものですね。私はといいますと、平成27年に特別支援学校に異動となり、翌年の特別支援学校の府への移管に伴い1年間の派遣期間を経て大阪市を退職し、平成29年より府立学校の教員として新規採用されました。現在は府立の支援学校で准校長としてお世話になっています。天真爛漫な児童生徒達に囲まれその笑顔に満たされ充実した毎日を送らせていただいています。東商の建物は無くなってしまいましたが、「士魂商才」の東商魂は永遠に不滅です。同窓会の益々のご発展を祈っています。


玉岡照宏先生 平成19年~平成21年
 創立100周年お祝い申し上げます。思い起こしますと、平成19年度着任早々の総会において、3校統合のプレス発表を予見しながらご挨拶をさせていただいた時の緊張感は、今も忘れられません。幸い、その席でOBの方から「東商は不滅だ!将来に誇れる学校を作って欲しい」との激励をいただいたことは、その後の学校経営に大いなる勇気をいただきました。しかし、わずか2年、事半ばで転任となり、誠に残念でなりませんでした。
 東商が閉校となり早や6年。今もなお、大勢の参加を得て総会が開催されている同窓会ならびに東商の存在意義に敬意を表しますとともに、会員皆さまの更なるご活躍・ご健勝を祈念いたします。


佐藤芳弘先生 平成21年~平成24年
 創立100周年おめでとうございます。
 OBFへの移転前3年間東商に勤務させていただきました。その間、90周年記念行事をはじめ、様々な場面で皆様のご協力をいただきましたことに改めて感謝申し上げます。中央区の校舎最後の年は、校内の設備や備品のほとんどが新校舎に移され、電話とパソコン以外は何もない校長室で業務をしていたことを思い出します。退職後は、毎月1回、島根の実家に帰省するようにしています。今ではすっかり習慣となり、帰省しないと気分が落ち着かなくなってしまいました。
 東商は統合・再編でOBFとなりましたが、同窓会の皆様の絆が今後とも一層深まることをお祈りしています。
 
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本年は恩師に質問にお答頂く形式でお便りをお寄せいただきました。
 質問の内容は…
 先生になっていなかったらどんな職業についていましたか?
 思い出に残る一曲は?
 もしも、宝くじ10億円があたったら?
 近況をお知らせください。
たくさんのお便りありがとうございました。恩師の皆様のご健勝と益々のご活躍をお祈り申し上げます。

★安原 敏夫先生 昭和42年~51年
社会科
「人生の短さについて」セネカ著
魔法の世界
週3日、小学校のいきいき活動教室で指導員をしています。


 
★山内充左右先生 昭和56年〜昭和60年
志賀直哉著「暗夜航路(あんやこうろ)」
松江市 足立美術館
齢九十を過ぎてから、急に立ちくらみを憶えるようになり、倒れかける事がある
 ようになり、もう永くは    無いなあと思うようになりました。グラウンド・
 ゴルフに熱中


 
★松尾 三郎先生 昭和56年~昭和62年
「音楽」特に合唱の指導。終戦後すぐ大阪商科大学のグリークラブNHKの
 木曜会 ジュピターコールグリーン・エコでのハーモニは今も心で響いております。
亀井勝一郎著「大和古寺風物誌」昭和28年発行
叶いますならば、67年の時を超えて、新人の青年教師として、教育活動に専念
 することが出来たらと言う思い、切なるものがございます。
「老讃讃」九十路へと旅より
               明け初むる 大和の国ここのそ路 見はるかす路 老い静謐(しずか)なり

★高西 正先生 昭和56年~平成12年
国語か社会。漢字を書くことや地理が好きだった
「野菊の墓」
北欧・グリーンランド
徐々に体力が弱くなり近江八幡までの片道3時間の通勤が苦痛になってきました。
 繁忙期には週に1~2回舟を漕いでいますがいつまで続くことやら!

 
★浅利 守光先生 昭和58年~63年
特になし。好きでなった教師。免許状も、高等学校3教科、中学校も3教科を取得
「オール・アバウト・コーヒー」ウィリアム・H・ユーカーズ著
タイム・スリップのドア。年歳のせいでしょうか、タイム・スリップ、何処へでも
まほろば大学校(生涯学習)で民俗学と考古学。まほろば歴史同好会(OB会と
 して結成)で歴史探索。大菊作りは、暑さにめげず大輪。家庭菜園は、暑さで、
 ひと月遅れの平年の 生り。

 
★船城 英教先生 平成11年〜平成22年
珠算(東商業高校一年生の時上田先生に教えていただきました)
「ファーブル昆虫記」
高校一年時大阪市立大会剣道大会男子団体優勝戦会場(修道館)東商が優勝した
 時間に。
大阪ビジネスフロンティア・鶴見商業高校に剣道部外部指導員として稽古させて
 もらってます。


 
★玉岡 照宏先生 平成19年~平成21年
「商業英語」。高校時代に初めて学び、大学のゼミでも役立ちました。私が教職に
 就いた頃 にはカリキュラムから消えていました。選択科目としてでも担当してみた
 かったです。
「下山の思想」定年退職直前に読みました。著:五木寛之
世界各国各地の世界遺産を訪れてみたい。
健康に留意し、平穏な日々を過ごしています。

 
恩師短信
★山上 仁士先生(昭年~昭年)
   
巳亥の年。84歳になりました。総会、楽しみにしています。元気です。
★笹月 繁先生(昭39年~昭49年)
   
週2日、大阪城修道館での指導、稽古、日曜日には地元剣道教室での稽古と剣道中心の日常です。
   東商剣道部の諸君と年1回懇親会「笹の葉会」で旧交を温めています。
★中井 晴子先生(昭42年~昭60年)
   
いつもお世話いただきありがとうございます。週2日はスポーツジムで2時間ほど体を動かしています。
★石井 雅宏先生(昭57年~平6年・平17年~平19年)
   
定年から12年、嘱託として勤務できる気力・体力は、今のところ何とか維持しています。ただ、完全
   引退のゴールは近いとも感じています。
★岩前 宏明先生(昭59年~平8年)
   
週3~4日大阪歴史博物館でボランティアガイドをしています。
★大川 哲子先生(昭61年~平13年)
   
釧路に移住して15年が経ちました。やはり年のせいか、氷点下の毎日は厳しいものがあります。眼下
   に見える釧路川の蓮葉氷の美しさにもうっとりしながらも、本音を言えば春が待ち遠しい今日この頃で
   す。皆様もお元気でお過ごしください。(氷の世界の住人より)
★谷口 武先生(平6年~平26年)
   
今年3月までOBF高校に勤務しました。70歳になりました。東商最後の卒業生が公認会計士試験に
   合格し仕事を始めました。
★市田 淳先生(平13年~平14年)
   
週3日元気にいきいき通いをしています。ハーモニカや篠笛を楽しく吹いています。
★小島 成起先生(平21年~平23年)
   
平成30年4月より再任用校長として、大阪市立神路小学校で勤務しています。小1~小6までの子供た
   ちと楽しくやっています。何かと行事も多く日々忙しくしております。
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本年は恩師に質問にお答頂く形式でお便りをお寄せいただきました。
 質問の内容は…
 先生になっていなかったらどんな職業についていましたか?
 ❷思い出に残る一曲は?
 ❸もしも、宝くじ10億円があたったら?
 ❹近況をお知らせください。
たくさんのお便りありがとうございました。恩師の皆様のご健勝と益々のご活躍をお祈り申し上げます。

 
★安原 敏夫先生 昭和42年~51年
金融機関(銀行員・証券会社員)ノルマを達成することは大変厳しい面があるが、やりがいもあじわえる継続は力という事が実感できます。(銀行5年勤務、証券4年勤務)
東商の校歌「士魂商才身につけて立て東商」
東商同窓会等に寄付します。約束は守りますので、ぜひとも、宝くじが当たりますように!
週4日、小学校のいきいき活動室で指導員として、児童たちから元気をもらっています。遊びや学びの支援は、居心地のよい「居場所」を昭和42年4創ることだと思う今日この頃です。
★政田 寛徳先生 昭和47年~52年
親・兄弟が医師ですので、一層の努力をして医師への道を選んだと思います。残念乍ら初志貫徹とはいきませんでした。しかし教師道を全う致しましたので悔いはありません。
望郷の念にかられる「異国の丘」
「公共の福祉」のために活用して戴くため社会福祉施設に全額寄付する考えです。
年齢80才を超え、気力、体力共にその衰えを感じ乍らも日々楽しく暮らしています。散歩・ランニング。野球観戦等に生きがいを感じつつプラス志
向で生活しています。
★向山 光正先生  昭和49年~61年
英会話の力を活かして、貿易商社に勤めて海外出張などをする、ビジネスマンになっていたでしょう。
ブルックナーの「交響曲第八番」
夢がないけれど、一流の銀行株10億円買って、配当で暮らしたいです。
英語俳句を作っています。
  a greeting card to my pet cat Mew from his vet
 
★竹内 俊和先生  昭和52年~58年
書道しか出来ないので、書に関わる仕事をしているかもしれません。表具師、印章等の仕事も考えられますね。
「時代遅れ」「木蘭の涙」
沈思黙考の末、ギャラリーをオープンさせる。
今年の春に教職を退職し、数年先の第二回個展開催に向け、作品制作の日々です。静謚で書道三昧を楽しんでいます。
★高西 正先生  昭和56年~平成12年
運輸関係できれば電車の運転士か旅行業界の添乗員など。
「イヨマンテの夜」
殆どはユニセフへの寄付とがん予防と治療の研究への寄付、残りは世界旅行!
舟漕ぎは通勤が苦痛になり週2~3日、あとは孫のリトルリーグの練習の手伝いや試合の応援、あとはANAのマイル稼ぎの旅行など
 
★足立 正人先生  昭和56年~平成6年
庭師
「神田川」昭和の物情騒然とした頃の歌。36期生の卒業式後、教室で斉唱していただき感謝しております。
はて、どうしたものか。古稀超えて、金利や株価に一喜一憂して残日を生きるわけにはいかず…
外出は稀。唯一、房総田園地帯のサイクリングと川釣りが楽しみです。神の不在・思想の不毛を受け容れると、眼前に広がる地平は一見荒涼と見えても、意外に自然で静穏です。
 
★浅利 守光先生  昭和58年~63年
木材商。材木屋の長男に生まれ、大学の商学部を卒業しましたが。。。
「モーニン」アート・ブレイキーとザ・ジャス・メッセンジャーズ。
地球を巡り、宇宙に翔ぶ
歴史探索の「まほろば歴史同好会」の活動。「大菊作り」は天候に災いされ、「家庭菜園」の猪の被害は、鉄柵で免れました。
 
★岩井 秀男先生 昭和59年~平成8年
教師になる前は、ヤマギワ電器(株)に5年間勤めていたので、教師にならなければ、そのままヤマギワ電器の社員として経理を担当していたと思います。
「群青」
子供と孫に分ける。自分と奥さまに1億づつ残して 特に何もしない、旅行は増える。
現在ユービック情報専門学校で教頭として勤めています。入学者募集中です。二人の子供は結婚し、5人の孫に(一番下が3才)育ジイで頑張っています。
★山本 俊明先生  昭和60年~平成2年・平成8年~平成11年
航空機の整備士。
「柔道一代」
使い道に困るのでクジを買いません。
リラックスして暮していくことに心掛ています。しかし何分内気で外股なので上手く行きません。

 
★山合 健一先生  平成2年~14年
国家公務員になっていたと思います。教員採用試験と国家中級に合格していたので、教員になりました。
ブラザーズフォーの「グリーンリーブス」
じっとながめています。
早期退職後、法律の勉強をしています。宅建、行政書士の試験に合格しました。さらに勉強に励んでいます。
 
★谷村 芳三郎先生 平成9年~20年
私は三男ですので、家の仕事をすることは無理でした。その方が自由に生きる道を選べると、結局は学校の教員の職に就くことにしました。先生になって良かったと思ってます。
校歌も遠くなり、今では「山男の歌」です。
「もしも、当たったら」皆さんに全部、分け与えたいですが、今迄、当たったことなしです。
お蔭さまで72才になっていますが、今でも山登りに行ったりしています。今迄に、金剛山へは660回登っています。しかし、足腰が少しずつ弱って来てますが、心配はありません。
 
★船城 英教先生  平成11年〜平成22年
全く想像がつきません
東商業「校歌」「応援歌」。生徒達が作った「80周年記念歌」
東商同窓会館を再建する
縁があり大阪ビジネスフロンティア高校と鶴見商業高校に剣道部外部指導員として行かせてもらってます。

 
★市田 淳先生  平成13年~平成14年
昭和39年3月高校を卒業しました。当時、父親より常々「手に職をつけなければ生きていけない」と言われてました。工学部を受験しましたが失敗。1浪して工業職員養成所に入学し大阪市教員に採用されました。順調にいけばカッコウいい設計エンジニアの道をすすんでいたでしょう。
「きょうも暮れゆく異国の丘に・・」浪人時代予備校の先輩より励まされました。
「半分は老後施設入居費にあと半分は東商同窓会に寄付します」お楽しみに・・・
「友渕小学校いきいき」に週4日勤めています。1・2年生の子ども達とものづくり(1月は凧・プラバン)やケンハモ合奏で楽しく遊んでいます。また篠笛やハーモニカを月2回お稽古に通っています。毎日薬を服用しながらもお酒が美味しくいただけありがたいです。
★玉岡 照宏先生 平成19年~平成21年
証券アナリストです。実際に大学卒業後、某証券会社に就職しました。その約3年後に退職し、教職の道を目指しました。
「ヘイ・ポーラ」
地域の老人が憩える集会所や子どもたちが安心して遊べる公園をつくりたい。
退職して早や6年!この間、入院・手術もありました。これを機に、健康第一にして何事も中庸を心がけています。
 
訃 報

       猪上 直英先生
       幸田 周三先生
      武内 節子先生
      中田 泰一郎先生
      松本 静香先生
      宮本 利夫先生
      村井 久泰先生
      八尾 宏先生
                    
                                                         ご冥福を心からお祈りいたします。
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本年は恩師に質問にお答頂く形式でお便りをお寄せいただきました。
 質問の内容は…
 
①先生になってよかったなぁと思うこと
 ②今まで見た映画の中で一番感動した作品名
 ③もしも、今魔法が使えるとしたら
 ④近況をお知らせください

たくさんのお便りありがとうございました。恩師の皆様のご健勝と益々のご活躍をお祈り申し上げます。

 


★中川 勝義先生  昭和38年5月~56年3月

卒業後、約10年経ってからの同窓会などでの出会いで、生徒であった時からの成長ぶりを見るのが一番の楽しみである。
人間の条件
若き日に戻りたい。年々体が弱って一日一日過ごしていくのが大変である。
・腰痛を押して畝高め大根播く
 ・ほろ酔も泥酔もあり酔芙蓉
               ・東福寺傘寿揃ひて照紅葉
                           ・九度山は家とびとびに柿のあり


★安原 敏夫先生 昭和42年4月~51年3月
日興証券を辞め、教職に就きました。先生という仕事は、生徒たちの心に残る素晴らしい大事な仕事なので、良かったと思っています。
東京オリンピック
好景気を持続させ、誰もが明るい未来を展望できるようにする。
平成287月から、小学校のいきいき活動室で、週4日、児童たちから元気を貰っております。仕事は厳しさと楽しさのバランスを図りながら自己の成長につながるよう、努めたいと考えております。


★向山 光正先生  昭和494月~61年3月
好きな英語を毎日生徒に教え、実力は余りつけてあげられなかったかも。でも良い会社や上級学校へ、大多数が進んでくれて、教師冥利につきます。
小津安二郎監督の「東京物語」
飼っている猫とおしゃべりをしたい。
英語俳句にこっています。 
 Walked on scarlet leaves as if red carpet


★松尾 三郎先生  昭和56年4月~62年3月
汗と涙で、共に希望を語り合った、素晴らしい教え子達に恵まれたこと。
シベリア物語
叶いますならば今一度、青年教師として、教育活動に専念することができたら・・・
「老讃讃」ここのそじの旅一より  
    
今日よりは 九十路へと旅立たむ 心新たに 老いと連れたちて。


★浅利 守光先生  昭和584月~63年3月
同窓会に出席参加する事。毎年2~3の学年会・クラス会に、殆どかリタイア一組ですが、招待されます。教師冥利に尽きます。
黒沢明「生きる」。若き頃に観た作品ですが、年齢を取った故
タイムスリップ
今年も、歴史検索の「まほろば歴史同好会」活動、大葉作り、家庭菜園の猪の被害甚大。遂に鉄柵を設けることになりした。

 

★高橋 保博先生 昭和年63年4月~平成3年3月
教え子の人格形成にかかわれた事と卒業後も人間関係が長く続いていくこと。
「道」(ジェリエッタ・マシーナ主演)
学生時代に戻りたい。
福祉施設でのボランティアや俳句活動にいそしんでいます。

 


★谷村 芳三郎先生 平成9年4月〜平成20年3月
何といっても、生徒が可愛いかったことです。私も高校時代は一番、悩みと希望のある時でした。そんな生徒達が、ついにこの間の私と重なり、教師になって良かったと思っている。
二十四の瞳(高峰秀子主演)

年寄りなら、まず元気に長生きできること。しかし、それが実現したら、世界がパンク❓
御蔭様で元気にしています。ただし、もうすぐ、72才になりますので、そろそろカウントダウンが始まる年です。しかし前を見て、歩いていきたいと思っています。

 

★船城 英教先生  平成11年4月〜平成22年3月
東商業に勤務する事が出来、お手伝いが少しは出来た事。
生きる
もう一度高校生時代にもどりたい。
OBFと鶴見商業高校に剣道部外部指導員として行かせてもらってます。
 


★玉岡 照宏先生 平成19年4月~平成21年3月
生徒のことを一心に思い、共に充実した時を過ごせたこと。今なお成長した教え子達から“先生”と呼ばれることに面映い感はあるが、なんとも心地良いことか。教師冥利につきる。
邦画 「不撓不屈」、洋画「汚れなき悪戯」
もう一度、教師としてスタートを切りたい。
“日々健康第一”を念頭に、規則正しい生活を送っています。現在、私の母校(本市の商業高校)の同窓会活動に徹力ながらお役に立てればとの思いで参加しています。

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本年は恩師に質問にお答頂く形式でお便りをお寄せいただきました。
 質問の内容は…
 
①先生になろうと思った理由
 ②東商での一番の思い出
 ③今興味がある事
 ④同窓生に一言メッセージ

たくさんのお便りありがとうございました。恩師の皆様のご健勝と益々のご活躍をお祈り申し上げます。




★中川 勝義先生  昭和38年5月~56年3月
夏、冬、春の研修期間が長いこと。この研修期間に多くの著作をすることができた。著作物約30点ある。
簿記部を創設し、高校一年生で全商簿記検定1級に合格させたこと。和歌山大学経済学部に合格させたこと。 
ピアノ演奏、発表会でショパン「ノクターン2番」を弾いた。現在はドビッシィーの「夢」に挑戦している。また、囲碁は4段で大会決勝戦に2度出場。俳句もしている。
          「吾亦紅いつまで続く同窓会」
何歳になっても、新しいことに挑戦すること。これが一生ボケ老人にならない秘決だと思う。



★安原 敏夫先生 昭和42年4月~51年3月
勤めていた証券会社が証券不況に揺らいでいたことと、教職は卒業生からも懐かしく思い出してもらえる素晴らしい職であること。
ウォーキングテストや部活動の合宿。
年金・医療・介護・福祉などの社会保障制度。
活気がある同窓会総会に出席し、くつろいで、語り合いましょう。




★藤原 正明先生 昭和49年4月~55年3月
バレーボールが大好きで!専門のバレーの先生が居なかった。バレーボールを通じて心やさしい人間を育てたいと思った。
初めて東商に行った時、中庭がありその後ろに大きなグランドがあると思った。でも、中庭がグランドでした。東高校跡地に引っ越し、でも新しい校舎にもどることはなかった。残念!
日本のバレーボールがどうなるか?旧友との会合に参加すること。福岡、名古屋、東京、京橋、高槻どこでも行って楽しく話すこと。
東商、市岡商、私の教師人生の半分過ごした学校が無くなりました。すごく残念に思っています。初めて連絡させてもらいます。元気です。



★高西 正先生 昭和56年4月〜平成12年3月
父、兄2人が教師であった(因みに弟2人も兄弟5人とも教員)
よく練習した割にはバレー部を強くできなかったこと。
ANAのマイル獲得。
身体を大事にして毎日楽しく過ごしてください‼︎





★松尾 三郎先生  昭和56年4月~62年3月
祖父、父、義兄、姉といずれも大阪市の小学校、中学校、高等学校の教員で、私も自然に教員の道を歩んでおりました。特に父からの教育に携わることの大切さを学びました。
新校舎の建設が実現し昭和57年の新校舎落成式の冒頭 大阪市音楽団の演奏による 「君が代」が式場に響き渡った時 30数年に及ぶ同窓会、後援会、教職員のご尽力と大阪市当局のご英断により悲願達成の思いを深く心に刻んだことです。
初めて「老い」を感じてから16年。老ゆることの素晴らしさを「老讃讃」と題して自らの老いを和歌に託しております。
 「老讃讃」-八十路の旅よりー  「清貧に生きる歓び まほろばに 春秋高く 生きる豊かき」
健康第一に一日一日を大切に生きること」東商同窓会の絆のますますの深まりを祈っております。



★山内 充左右先生 昭和56年10月~60年9月
悪夢の戦争が終結して兵役が終り復員、食糧事情の不足な中、縁故採用の重視の世相で朝日新聞社出版部・第二地方復員局・住友金属KK製鋼所と進めて大阪 市教育委員会を経て、都島工業高校へ採用され転勤すること5校目だった。
東高校が都島へ移転し、一時その跡地へ東商が移転し、元の場所に8階建ての新校舎を建設。丁度その新校舎が竣工前の頃西商業より転勤し、校舎の移転、引っ越し作業、東商同窓会会館の整備、卒業式、入学式、竣工式と矢継ぎ早に大変な時でした。
卒寿を迎え、老い先短いことを痛切に感じ,体力の維持に努め、グラウンドゴルフで脚の維持。パソコンを”いじり”頭の働きの衰えを何とか維持し、絵画(水彩画・油彩画・パステル)に励んでいます。
只今脊柱管狭窄症で、1年半の神経麻痺ガ伴い脊椎の指圧(中山式指圧器に依る)により矯正治療、何とか日常生活に支障なし「日常姿勢を正しく保ち脊椎正常を保ち脊椎を正常に保つことが肝心である。」自動車運転姿勢が一番危険である。
 


★田中 久子先生    昭和57年〜平成4年
強い意志を持っていたわけでなく、気がついたらなっていたという表現が正しいのですが、充実した教員生活を送ることができて幸せだったと思っています。
一番はどれかといわれると絞りきれません。初めて赴任した学校ということもあり、数々の思い出ができました。
趣味のランニングを続けて25年以上になります。年齢を重ねても走力を維持するためにどうすべきか、効果的な方法を考えることです。
同窓会からのお知らせを頂くたびに東商時代をなつかしく思い出しています。機会があれば連絡くださいね。



★浅利 守光先生  昭和58~63年
材木屋の長男に生まれ、大学の商学部を卒業しましたが、若気の至りか正義感が貫ける職業と幻想、43年間の天職を全うしました。
全国初の8階建て高層校舎、最新鋭の情報処理機器、それを駆使した先駆的な総合実践の授業。
「まほろば歴史同好会」を結成して8年余、歴史探索に邁進、ホームページを覗いて下さい。現役時代からの大菊作り今も。無農薬の家族菜園、売られている綺麗な野菜の意味が分かります。
何時までもいつまでも、東商よ! 天壌無窮たれ!!!と。



★山本 俊明先生 昭和年60年4月~平成2年3月 平成8年4月~平成11年3月
正確には何となくが適当でしょう。戦争で大変な苦労をした親を助けたかった。
未熟な自分を暖かく迎えてくださった教職員同窓会役員、PTA役員後援会役員の皆様の事でした。それで東商のために一生懸命になろうと思った事。
オリンピック種目である柔道の進行審判は日本語でします。何かの時は気をつけてと思っています。
商工業都市大阪の発展に貢献された先輩の和魂商才の精神を皆様も継承していただき社会貢献を果たしてほしい。


★大川 哲子先生 昭和61年4月〜平成13年3月
直接のきっかけは、映画「24の瞳」を見て感動したことでしょうか、小さい頃から、何となくあこがれ的に考えていたのですが、大学に入ってからは、それが確信になりました。でも正直言うと高校の教師になるとは思ってなかったのですがt・・・(小学校か中学校)結果的にはみなさんに会えて満足しています。
やはり、何と言ってもあなたたちと一緒に取り組んだ文化祭などの行事ですね。担任としても生徒会顧問としても、行事大好き人間の私には、楽しい思い出として残っています。普段の生活では気づかなかったあなたたちの個性が、とても光って見えました。
自然の宝庫、北海道の釧路に移住したので、やはり一番興味を持っていることは、自然に親しむことです。でも人と接することが大好きな私は、教室が自然の中に変わったという感じで今、自然ガイドのまねごとのようなことをしています。
社会に目を向けて下さい。皆さんも見たり聞いたりしていると思いますが、最近の「シールズ」などの大学生や高校生の活躍にはとても心強いものを感じています。戦後70年ー民主国家の原点に立ち戻り、不戦平和の声を広めたいものです。


★山合 健一先生 平成2年4月~14年3月
生徒とともに学ぶことができるのではないかと考えたからです。
多くの良い生徒と出会うことができました。
学生時代にできなかった法律を学ぶこと。
人生は一度、思い残すことのない生き方をしましょう。私は52歳で早期退職をして、第二の人生をスタートさせました。


★米川 進先生 平成5年4月~19年3月
高校野球は美しい青春のドラマである。高校時代に白球を追ったことから、野球の虜になり、教師になって高校野球の監督として部員と一緒に野球を続けてきました。35年間という長い年月、高校野球が私の第2の人生でした。
体育大会の仮装行列や文化祭の劇・模擬店の出し物等、みんなで知恵を出し合い、立派に成功させる高校生の力を確信しました。 又、吹奏楽部の一糸乱れない行進にも感動しました。
私は自然が好きです。春には小川のせせらぎの音や蝶の舞に酔い、夏には田圃の蛙や木々の蝉の鳴き声に耳をすまし、秋にトンボの群れと戯れる。そんな古里の季節の光景が甦る。いつしか年令を重ねた今、美しい自然を求めて、原風景の山里を歩きたい。
高校時代は美しい年代である。三年間の思い出は今なお走馬灯のように蘇ってくることでしょう。その心でこれからも素晴らしい東商の歴史と伝統を守り、同窓会を盛り上げて行きましょう。


★尾谷 栄一先生 平成6年4月~13年3月
東商卒業後も、恩師高橋先生、富沢先生、上田与先生のご指導を頂き、一層母校への愛着を感じた事。戦争を繰り返してはいけないという密かな自負を感じていた事。
東商80周年記念誌(写真と証言で綴る80年)の発刊に携わった事。東商80年の歴史の重みと先輩諸氏の母校愛をひしと感じました。
立ち上げに誘われて、2014年より男声コーラスをやっています。少し外れますが楽しんでいます。
願わくは戦争を繰り返さないで。(いわんや他国においてをや)



★船城 英教先生  平成11年4月〜平成22年3月
剣道を通して人と接したかったから
体育大会(大阪市立中央体育館) 開会式の時、音源トラブルで音楽なしとなったが、スピーカーなしで進行し校歌も全員大きな声で歌い、体育大会が無事進行した。東商生の心に感謝です。
剣道の基本がきちんと出来ように、稽古を続けたい。
ありがとうございました。



★兵頭 英樹先生 平成18年2月~19年3月
教育実習で生徒と触れ合う中で、これほど多くのいろんな個性ある人間と出会える仕事は他には無いと思い、一生の仕事とするのにふさわしいと感じたからです。
産休として東商へ赴任してくると、中学校で担任をしていた生徒が居り、世間の狭さを実感した事です。
仏教についてです。後世の宗教的なものではなく、お釈迦様の言われた事には哲学的なものがあり、人として生きていく上で非常に有用な思想が詰まっているように思います。
「商業」という世の中で生きていく上で必要不可欠のものを勉強した君たちに伝えておきたい事。それはお金がすべてではないという事です。社会で仕事をしてお金を稼ぐことはとても重要な事ですが、人として何を重視するのかという優先順位を間違わないようにして欲しいと思っています。


★玉岡 照宏先生 平成19年4月~平成21年3月
学生時代には深い考えもなく取得した教員免許状。一度は他職に就いたが、私自身、本市商業高校の卒業生であることから、その経験を活かし、本市教育に少しでも貢献できたらとの思いが強くなり、教員採用試験にチャレンジ。
平成19年度着任早々の同窓会総会。約2週間後に迫った3商業統合のプレス発表を 前に、極度の緊張の中、ご挨拶をした時の事。ご出席のOBの方から「東商同窓会は不滅だ」企業は合併で強くなる。あの松下もパナソニックと社称を変え発展した。校長!ぜひ立派な学校を作ってください。と言っていただいた。その後の私の学校経営の大きな力となり、勇気をもって改革に取り組むことができた。
健康
東商の歴史は閉じましたが、卒業生として❝士魂商才❞東商魂を胸に刻み、誇りをもって、力強く前進していってほしいと願っています。
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 毎年、近況というものを書かされていますが、特にお知らせするような事もありません。私は1928年生まれですから、今年で86歳になりました。従って「カラー写真を1枚同封せよ」とのことですが、今度の会誌はフルカラー特集号になるのかな、それなら葬式用を兼ねて写真屋で撮って置こうかな」と思い悩みつつ夜も眠れぬ日々を送っています。
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