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2010/02/16

東商の歴史2 (1940年~)

戦時下の特異な東商像
1940年
(昭和15年)
戦時体制に入る   
学校の各種行事は勤労奉仕となる。   真田山プールづくりなど
野外教練・合同演習など盛んに実施 宿泊を伴い、行軍距離 40km
1941年
(昭和16年)
太平洋戦争始まる   
吹奏楽部 優勝 全日本吹奏楽コンクール
農場「養心学園」完成 八尾競馬場跡地 井野農林大臣命名
養心学園にて食糧増産 生徒の勤労奉仕による
1943年
(昭和18年)
学徒戦時体制確立   
商業科目は工業に変更 内容は勤労動員
1944年
(昭和19年)
浪華女子商業学校を設立 浪華小学校跡地(現在地)
決戦非常措置 少年戦車兵・海軍予科練習生に志願・出陣も
学徒勤労令 大阪工廠・住友金属・久保田鉄鋼等
1945年
(昭和20年)
大阪大空襲 引率の先生は危険と判断したのか、解散避難となった。御堂筋に人がうつぶせに倒れている。この日はB29が458機来襲したとか。
梅新で人の手首が落ちていたが、誰も何も言わず通り過ぎている。この日、東商校舎は炎上した。(3期 佐野喜三郎氏)
敗戦時の東商在籍生徒数 300余名
復興~戦後の高揚期
1946年
(昭和21年)
日本国憲法公布

 

ウォーキングテスト 復活  
学生珠算競技大会 復活 東商・東珠会主催 第6回
修学旅行 復活 別府温泉
選抜入試 定員150名 志願者200名超
1947年
(昭和22年)

第1回国民珠算競技大会    旧20期 堅尾省三氏 優勝

そろばん 日本一
1948年
(昭和23年)
新制高校発足  
市立浪華商業高等学校と男女共学 実施 旧 浪華女子商業学校
校名を大阪市立 浪華又は東 東又は浪華 商業高等学校と呼称  
広小路校舎と別離 生徒が三日掛りで現在地に移転
1950年
(昭和25年)
校名を大阪市立東商業高等学校と改称  
新聞部 「北斗星」 を創刊
体育祭はあやめ池にて開催
1951年
(昭和26年)
硬式野球部大阪予選Aクラスに 濱田投手ノーヒットノーラン達成
東商後援会発足 会長 寺内石夫氏
1952年
(昭和27年)
寒稽古始まる ソフト・硬式野球・バレー・サッカー・卓球・陸上・水泳・柔道・庭球・軟式野球・弁論・文芸・速記・音楽部参加
入試定員300名 応募450名  
1953年
(昭和28年)
「就職は1月現在100%の好成績」 「北斗星」記事

1954年
(昭和29年)

自動車部 創設  
1955年
(昭和30年)
ウォーキングテスト 枚岡-菜畑-暗峠-市大植物園-成田不動男子30km 女子20km
校舎建設促進委員会 発足 後援会・PTA・同窓会(寺内石夫会長)
1957年
(昭和32年)
増築校舎竣工 (3階建て) 体育館・和英タイプ・商業実践室
文部省産業教育指定校研究発表 新校舎にて
柔道部 優勝 府大会
サッカー部 4位 府大会
1959年
(昭和34年)
卓球部 優勝 府大会数年連続。全国大会出場
百人一首かるた会 始まる  
1960年
(昭和35年)
男女比逆転 女子漸増 新15期 38年卒
文化部 多彩 弁論・吟詠・速記・商業調査・地歴・文芸・科学・コーラス・郵便友の会・園芸・同好会など
1962年
(昭和37年)
国民珠算競技大会 珠算部 優勝 団体・個人優勝は4年間続く
雨池健三氏 そろばん 日本一 17期 40年卒
ベビーブーム世代入学 G組 増設 昭和37~41年
1963年
(昭和38年)
寒中登山 この年度は六甲山
阪大移転の跡地問題 浮上  
1964年
(昭和39年)
「校舎建設促進委員会」発足 学校・PTA・同窓会・後援会
1967年
(昭和42年)
移転・建設促進の陳情書 提出 校舎建設促進委員会
補習授業が行われていた 放課後
1969年
(昭和44年)
体育祭 橿原神宮にて実施  
産業教育指定校となる 市教育委員会
高校紛争 市立の高校にも波及  
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