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2010/02/19

旧16 高橋武男

戦時の記録 「塞 翁 が 馬」

高橋武男(旧制16回 84歳 珠算部OB) 
平成14年12月29日寄稿
 ここ2~3年、これまでの鮮明だった記憶力が、急速に薄くなってきた。
思いつくままに、私の戦時の記憶を振り返ってみようと思う。
昭和13年3月大阪市立東商業学校を卒業、これからの自分の進む方向として小さな規模でもよい,何か将来独立して事業を経営できればとの思いで個人商店で仕込んでもらう道を選んだ。そのうち、先輩の勧めで関西大学専門部2部に在籍した。卒業を翌年に控え、大体の目鼻も尽き少しは羽を延ばそうと思っていた矢先,突如日米開戦の大きな出来事に遭遇して、急遽卒業が繰り上げになり、昭和16年12月25日に卒業することになった。
何しろ卒業試験やら徴兵検査やらでその年は目のまわるほどい思いをした。その挙句、一月ほどの身辺整理の余裕をもらい,愈々2月1日現役兵として、大阪城下の中部23部隊に入隊することになった。大手前広場に集まった半分ほどは、そのまま戦地へ移動して現地入隊するようであった。
入隊して初めて知ったことであるが、我々は幹部候補生要員として扱われることになった。当時、下級将校は消耗品のようにどんどん消えて行った。つまり我々は消耗品であったのかと思い知らされた。反面、古い兵隊からは、「いずれこいつらは直ぐ我々を追い抜きよる」と言うことで散々しごかれた。幸い幹部候補生試験に合格することが出来た。
まもなく厳しい演習中の負傷がもとで緊急入院することになった。仲間らは久留米陸軍予備士官学校へ入隊した。丁度、外は桜が満開であった。桜花爛漫と咲く中,薄暗い兵舎で独り紅涙に咽んでいた当時を思い出す。やがてその年の秋,仲間はみな立派に成長して見違えるほどの貫禄を身につけて帰ってきた。本当に晴々しく思った。頼もしく思えた。何より嬉しかった。
戦局はどんどん拡大し、まもなく見習士官になった彼らの中から戦線へと転属してゆくものが増えてきた。そのうちに東商同期の植田佳一君は中支方面軍への転属が決まった。命令が出て数日のうちに出発となった。前日、彼に会い、尽きぬ思い出をただ握手だけの短い別れとなった。もとより充分な時間は許されなかった。お互い軍務多忙の身であった。目は口ほどに物を言い,そこはお互い軍籍にあるもの同志、口には言えなかったが気持ちはよく通じ合った。
支那大陸の某港へ無事に上陸したまでの報は届いたが、間もなく戦死したという情報を耳にした。一瞬、わが耳を疑ったが紛れのない事実であった。せめてもそのときの詳報をと,手を尽くし最後の状況を集めるのに奔走した。随分、激しい状況であったらしく、雨霰と飛んでくる弾丸の中でも膠着は許されず,後方の指揮官からは早く突撃するよう叱咤の命令,古参兵から今出るのは危ないですと注意を受けても、指揮は植田見習い士官にあり,待ち切れずに前進しかけたところを敵弾を受けて壮烈な戦死を遂げたのであった。なんと残酷なことか。
内地に残った私は,東商で培った珠算のお蔭で、特に簡単な暗算が珍重され、やがて選ばれて酒保勤務になった。段々物資不足が深刻になり大阪に知り合いが多いということはその後の勤務で役立ち大変有り難かった。それが一つの特技ということになり、4年間の軍隊生活で最後まで同じ部隊に残れたのは全く幸運としか言い様がない。350人ほど入隊して生き残ったのは、結局10名足らずであった。
そんな私を誰から聞いてか、同窓の先輩後輩、もちろん同期もよく訪ねてきてくれた。なかには随分と喜んでくれた人もいてよい思い出になる。戦死した友の多い中,不思議にも生き残り今日を迎えることが出来たるのも今は亡き彼らのお蔭であり、余生を役に立てるよう頑張りたく思う。 合掌
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