冬は寒中登山、秋にはウォーキングテストと称して野山へと校外行事が盛んな学校でした。当時学校は、東区南久太郎町に在り、商業都市の中心的地域でしたから、生徒にとって校外での行事は気分転換になったのではと思います。部活動も盛んで、特に珠算部の好成績が記憶にあります。運動部も施設に恵まれない状況でも活発でした。私も剣道部指導で数々の生徒達と接しましたが、中でも船城英教君は教員となり、府剣道連盟行事やOB会の世話をするなど活動しています。
私は現在85歳。剣道範士八段。修道館講師。元気な年寄りです。
安原 敏夫先生<昭和42年~昭和51年>
珠算は広く愛用されて、計算にはなくてならない計算器になっています。徳川時代には裕福な子供たちは寺子屋に通って、読み書きそろばんを習いました。珠算は川柳にも読まれています。『親の珠算を息子が破さんする』破産と破算をかけています。親が苦労して作り上げた身代を息子が破産してしまう、という意味です。そろばんの名産地は兵庫県と島根県です。
皆様のご活躍を期待しています。
向山 光正先生<昭和49年~昭和61年>
昨年女の初孫が生まれました。お七夜・食い初め・桃の節句と、慌ただしくも嬉しいものです。日毎の成長には目を見張ります。
昨年の東商同窓会に、久し振りに出席し、担任していた3年F組の旧姓小田さんらにも会いました。その後F組同窓会を持ってもらいました。皆さん還暦なのには驚きました。
松江 靖朝先生<昭和50年~平成6年>
若き日の写真です。昔をしのぶ一助となるかもね…
北山 武司先生<昭和56年~平成2年>
↑なかなか素晴らしいでしょ、AIに書いて貰いました。
https://www.instagram.com/marutaro1206/?hl=ja
石井雅宏先生<昭和57年~平成6年・平成17年~平成19年>
私にとって東商は、最も長く務めさせていただいた学校であり、定年を迎えた学校でもあります。
現在78歳の私は、75歳で仕事に区切りをつけました。しかし引きこもっていたのではダメだと考え、いくつかの関わりを残しました。その一つに、富本奨学会があります。実はこれも東商がご縁となっています。
富本奨学会は、大阪府下の大学の大学生・大学院生に返済不要の奨学金を給付している公益財団法人で、設立者が東商に在学された故富本信太郎氏なのです。氏は、経済的な理由で修学が困難な学生を支援しようと私財を投じてこの奨学会を設立されました。そして、現在、その事業に参画させていただいているのが私の立ち位置となっています。
東商は統合後、東商の名を冠する団体が少しずつ減少する状況にあります。ただ私は、名も重要でありますが、その精神が引き継がれることがより重要と感じております。私は今の立ち位置を大切に、また東商とのご縁を大切に、体が許すまで歩んでいきたいと考えています。
同総会のみなさまにおかれましても、東商とのご縁をどこかに感じつつ歩まれますようエールを贈り、この稿を閉じさせていただきます。
田中久子先生<昭和57年~平成4年>
様々なストレスを感じますが、私自身はランニングを続けることで、元気で過ごすことができています。
そんな中、今年2月の大阪マラソンでは、読売テレビの特別番組の中で取り上げて頂きました。事前に取材された内容や、走りながらスタジオからのインタビューに答える姿が放送で流れました。HPにも載せて頂くなど、得難い経験をすることができました。
浅利 守光先生<昭和58年~昭和63年>
『90歳になります。
就
当時、COBOLだFORTRANだとか、ハードごとの方言に悩まされていたのが、Windowsになって、ソフトで共通・統一。また、プログラムを組むことから、プログラムを使うことへと一変したことなど、今となっては、懐かしい年寄りの繰り言です。
私事、取り敢えずは元気のつもりです。今も自慢は、口先と頭の毛です。この齢になって、パソコンを買い替えました。その折、訪問設定の方との対話。頭を下げたままでの設定のやり取りの中、PCの対話でなく、頭髪のことが中心でした。』
髙橋 保博先生<昭和63年~平成3年>
日本で生まれ育った者なら、誰しも桜への思いは強いものがあろうが、開花を今か今かと待ちわび、桜の下で宴を張るのも日本で生まれ育った者ならではのものであろう。
芭蕉に『さまざまな事おもい出す桜かな』という句があるが、この句は、芭蕉が藤堂家に仕えていた時の思い出を桜に託して詠んだものである。淡々とした句ではあるが、尽きせぬ思いが漂っている。
桜は、人生を振り返らせてくれる。日常の忙しさに取り紛れ、自分を振り返ることの少ない昨今ではあるが、今一度、自分を反省するよすがともなるものである。
悔いが残る日常にあって、自分を振り返ることの必要性を感じる昨今である。
竹内正己先生<平成11年~平成22年>
退任後は博覧会建設現場のインフラエンジニアにでもなろうと職業訓練校を終了したのですが、現実的には岸和田の高等学校に情報関係の非常勤講師のお呼びがかかったので、そちらに週4回通っています。情報科にあるプログラムの授業を持ちたかったのですが、相変わらずのExcel,Wordの授業を担当しています。今年は情報処理ビジネス部門の1級を担当できるようになり楽しみにしています。大学受験の共通テストの情報と出題範囲は異なりますが、アルゴリズム的な問題ではこの検定の1級のほうが難解ではないかと感じています。
船城 英教先生 <平成11年~平成22年>
晩秋のころ、山の辺の道(桜井~天理)、信貴山・平群の里・生駒山(枚岡神社発~)、摩耶山等を順番に歩いていたと思います。いずれも現地集合、現地解散で各関門を順々に通っていく方式でした。生徒が自主的に判断して行動している素晴しい行事でした。このウォーキングテストは旧制東商業学校時代からある行事です。先輩方からの伝統を引きつぎ皆さんは楽しく頑張ったと思います。これだけの長い距離を事故なく毎年実施出来たことは、凄いことだと思います。私の高校生時(新制26期)には、奈良柳生街道、池田五月山~箕面勝尾寺、生駒山~信貴山でした。
皆様もこれからもウォーキングテストの時の様に、元気よく歩いて行きましょう。
玉井 昭先生<平成11年~平成14年>
今、私は八十歳半ばに近づいている。在職中、同窓会が学校創立80周年を記念し大阪城天守閣の近くに記念碑の設置と松の木三本を植樹された。その植樹に立ち会えたのが思い出として残っている。今は、卒業生の皆様が朝のラジオ体操の集合場所として利用されていると聞いている。昔、老人は引退し隠居生活を送ったそうだが今はパソコンやスマホのAIやyoutubeと対話したりしていると一日が直ぐに過つ。現役の時より国内・国際情勢に詳しくなることもある。
卒業生の皆様が健康で過ごされますよう祈っています。
市田 淳先生<平成13年~平成14年>
4月初め、20年ぶりに東商跡地を訪ねました。慣れ親しんだ堺筋本町駅3号出口より徒歩3分、白亜の校舎があった辺りには地上30階建てのタワーマンションが聳え、またプール辺りには屋上駐車場を備えた大手商業施設が営業していました。建物沿いに裏に回ると東商会館の跡地には区が管理する文化教室「船場浪華会館」が建てられ、記念碑が移設されていました。当時、学校周辺に軒を連ねていた繊維商店は見当たらず、レストランや中層マンションに変わっていました。唯一学校前の「繊維会館」を見かけることができました。
ネット社会が進行する現在、ビジネス形態が多様化し生活様式も変化していきます。正しく現在の姿なのです。これまでの船場から
玉岡 照宏先生<平成19年~平成21年>
ネガティブな話はこれぐらいにして、私の趣味というか、近況を紹介します。以前にも書きましたが、デジカメをもって週に2回から3 回は写真を撮りに 出かけています。 色んな写真が沢山あります。 昨年、孫からすすめられてインスタグラム「おっさんのデジカメ街散歩」を開設して、とり貯めた写真、最近撮った写真をアップしています。 数は少ないですが、全く知らない人が「フォロ―」してくれたり、「いいね」を付けてくれたりします。見てもらえていることに、ほくそ笑んでしまいます。 もしよろしければ、皆さんも私のインスタを覗いてみてください。
小島 成起先生<平成21年~平成23年>
東商で得たご縁で、今も大阪市の教育に関われることに喜びを感じています。
訃 報 山合 健一先生



