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2025/06/17

2025年恩師だより

笹月 繁先生<昭和39年~昭和49年>
 私は昭和39年10月、保健体育科教員として当時大阪城内に設立されたばかりの、大阪市立修道館少年剣道指導担当との兼務で着任しました。着任しての第一声は今でも覚えています。「グラウンドは何処にあるんですか」体育の教員として当然のことでしょう。中庭のようなグラウンドと小さな体育館での指導でした。以来10年間の勤務でした。
 冬は寒中登山、秋にはウォーキングテストと称して野山へと校外行事が盛んな学校でした。当時学校は、東区南久太郎町に在り、商業都市の中心的地域でしたから、生徒にとって校外での行事は気分転換になったのではと思います。部活動も盛んで、特に珠算部の好成績が記憶にあります。運動部も施設に恵まれない状況でも活発でした。私も剣道部指導で数々の生徒達と接しましたが、中でも船城英教君は教員となり、府剣道連盟行事やOB会の世話をするなど活動しています。
 私は現在85歳。剣道範士八段。修道館講師。元気な年寄りです。


安原 敏夫先生<昭和42年~昭和51年>
 高校のとき、珠算部員としてお互いに競いました。高卒後、証券会社に勤務しましたが4年目の9月に証券不況に成り、年度末に依願退職して4月に教員として、大阪市立の商業高校に転身しました。昭和42年の4月に東商に転勤しました。9年間楽しく過ごしましたが、社会科教員として府立高校に異動しました。定年退職後、三菱信託銀行、関西大学入試広報課勤務を経て、大阪市立の小学校「いきいき」で3年10か月、児童たちから元気をもらいました。
 珠算は広く愛用されて、計算にはなくてならない計算器になっています。徳川時代には裕福な子供たちは寺子屋に通って、読み書きそろばんを習いました。珠算は川柳にも読まれています。『親の珠算を息子が破さんする』破産と破算をかけています。親が苦労して作り上げた身代を息子が破産してしまう、という意味です。そろばんの名産地は兵庫県と島根県です。
 皆様のご活躍を期待しています。


向山 光正先生<昭和49年~昭和61年>
  大切な人、親しい人が鬼籍に入りました。私は今76歳です。私より若く、元気だった人を見送り、自分は長生きしてると思います。
 昨年女の初孫が生まれました。お七夜・食い初め・桃の節句と、慌ただしくも嬉しいものです。日毎の成長には目を見張ります。
 昨年の東商同窓会に、久し振りに出席し、担任していた3年F組の旧姓小田さんらにも会いました。その後F組同窓会を持ってもらいました。皆さん還暦なのには驚きました。



松江 靖朝先生<昭和50年~平成6年>
 ウクライナ侵攻やトランプ関税に心を痛めつつ、私も何時の間にか八十路を超えました。ウォーキングの「石川桜堤」も何時の間にか葉桜です。そんな中、道元禅師の『眼横鼻直』に出会いました。『眼横鼻直』とは、眼は横に並び、鼻は縦についている、という意味で、「真理とは、特別な所にある特別な物ではなく、当たり前の事の中にある当たり前の事」というメッセージなのだそうです。宋代中国の修行から戻った道元に日本では知りえない「スペシャルな教え」を期待する人々に「眼は横、鼻は縦」と素っ気なく答えられたとか。当たり前の事を、当たり前に行じていく日々の精進こそが、仏道だと禅師は伝えたかったのです。都合のいい近道は存在しない。当たり前の事から可能性は生まれると云う教えです。坐骨神経痛で痛さに四苦八苦している私ですが、トランプさんにも理解して貰える妙薬が有ればいいですね。
 若き日の写真です。昔をしのぶ一助となるかもね…


北山 武司先生<昭和56年~平成2年>
 72歳。旅行、パン作り、スキー、ジム通いが日々の楽しみです。コロナ禍の旅行支援を活用し、全国を巡りながら計34泊もしました。温泉に入ったり、美味しいものを味わったり、各地の風景や人との出会いを楽しみました。この冬は長野県白馬村に2週間滞在し、スキーを満喫。大雪にも見舞われ、友人宅の除雪作業も手伝いました。スコップ片手に雪かきすると、ちょっとした筋トレ気分で良い運動に。パン作りは長年の趣味で、焼きたての香りに癒されています。「パン屋できるね」と言われることも(笑)。ジム通いで健康維持にも励んでいます。年齢はただの数字。これからも好奇心を大切に、心豊かに暮らしていきたいです。Instagramもやっているので、旅やパン、スキーの写真など、よかったらのぞいてみてください♪
↑なかなか素晴らしいでしょ、AIに書いて貰いました。
https://www.instagram.com/marutaro1206/?hl=ja


石井雅宏先生<昭和57年~平成6年・平成17年~平成19年>
 同総会誌へ消息を寄せるのが最後と思うと寂しさを禁じえません。
 私にとって東商は、最も長く務めさせていただいた学校であり、定年を迎えた学校でもあります。
 現在78歳の私は、75歳で仕事に区切りをつけました。しかし引きこもっていたのではダメだと考え、いくつかの関わりを残しました。その一つに、富本奨学会があります。実はこれも東商がご縁となっています。
 富本奨学会は、大阪府下の大学の大学生・大学院生に返済不要の奨学金を給付している公益財団法人で、設立者が東商に在学された故富本信太郎氏なのです。氏は、経済的な理由で修学が困難な学生を支援しようと私財を投じてこの奨学会を設立されました。そして、現在、その事業に参画させていただいているのが私の立ち位置となっています。
 東商は統合後、東商の名を冠する団体が少しずつ減少する状況にあります。ただ私は、名も重要でありますが、その精神が引き継がれることがより重要と感じております。私は今の立ち位置を大切に、また東商とのご縁を大切に、体が許すまで歩んでいきたいと考えています。   
 同総会のみなさまにおかれましても、東商とのご縁をどこかに感じつつ歩まれますようエールを贈り、この稿を閉じさせていただきます。


田中久子先生<昭和57年~平成4年>
 「多系統萎縮症」という難病に罹患した主人の闘病生活も5年になろうとしています。
様々なストレスを感じますが、私自身はランニングを続けることで、元気で過ごすことができています。
そんな中、今年2月の大阪マラソンでは、読売テレビの特別番組の中で取り上げて頂きました。事前に取材された内容や、走りながらスタジオからのインタビューに答える姿が放送で流れました。HPにも載せて頂くなど、得難い経験をすることができました。




浅利 守光先生<昭和58年~昭和63年>
          『90歳になります。
 就任時の昭和58年、前年新築の校舎、高等学校では希有の高層8階。商業科として、最新の機器・授業内容も革新でした。今思えば、商業の新興科目の情報が大学入試の重要科目の一つになっていることです。屋上から見下ろすと、眼球がクルクル。懐かしい東商が、今も此処に在るようです。
 当時、COBOLだFORTRANだとか、ハードごとの方言に悩まされていたのが、Windowsになって、ソフトで共通・統一。また、プログラムを組むことから、プログラムを使うことへと一変したことなど、今となっては、懐かしい年寄りの繰り言です。
 私事、取り敢えずは元気のつもりです。今も自慢は、口先と頭の毛です。この齢になって、パソコンを買い替えました。その折、訪問設定の方との対話。頭を下げたままでの設定のやり取りの中、PCの対話でなく、頭髪のことが中心でした。』


髙橋 保博先生<昭和63年~平成3年>
 奈良では、今年は桜が例年より遅いようである。例年なら、3月末には散ってしまい、入学式には間に合わないが、今年は3月末でも五分咲きぐらいである。新入生を迎えてくれそうである。
 日本で生まれ育った者なら、誰しも桜への思いは強いものがあろうが、開花を今か今かと待ちわび、桜の下で宴を張るのも日本で生まれ育った者ならではのものであろう。
 芭蕉に『さまざまな事おもい出す桜かな』という句があるが、この句は、芭蕉が藤堂家に仕えていた時の思い出を桜に託して詠んだものである。淡々とした句ではあるが、尽きせぬ思いが漂っている。
 桜は、人生を振り返らせてくれる。日常の忙しさに取り紛れ、自分を振り返ることの少ない昨今ではあるが、今一度、自分を反省するよすがともなるものである。
 悔いが残る日常にあって、自分を振り返ることの必要性を感じる昨今である。


竹内正己先生<平成11年~平成22年>
 再任用を終えて3年目になります。
 退任後は博覧会建設現場のインフラエンジニアにでもなろうと職業訓練校を終了したのですが、現実的には岸和田の高等学校に情報関係の非常勤講師のお呼びがかかったので、そちらに週4回通っています。情報科にあるプログラムの授業を持ちたかったのですが、相変わらずのExcel,Wordの授業を担当しています。今年は情報処理ビジネス部門の1級を担当できるようになり楽しみにしています。大学受験の共通テストの情報と出題範囲は異なりますが、アルゴリズム的な問題ではこの検定の1級のほうが難解ではないかと感じています。
実兄が三菱金曜会の議長をつとめる会社の社長・会長を勤め、今年4月からは取締役特別顧問とのこと、私はお金はありませんが、いつでもやめれると思うと気が楽です。




船城 英教先生 <平成11年~平成22年>
 ウォーキングテストについて述べます。
 晩秋のころ、山の辺の道(桜井~天理)、信貴山・平群の里・生駒山(枚岡神社発~)、摩耶山等を順番に歩いていたと思います。いずれも現地集合、現地解散で各関門を順々に通っていく方式でした。生徒が自主的に判断して行動している素晴しい行事でした。このウォーキングテストは旧制東商業学校時代からある行事です。先輩方からの伝統を引きつぎ皆さんは楽しく頑張ったと思います。これだけの長い距離を事故なく毎年実施出来たことは、凄いことだと思います。私の高校生時(新制26期)には、奈良柳生街道、池田五月山~箕面勝尾寺、生駒山~信貴山でした。
 皆様もこれからもウォーキングテストの時の様に、元気よく歩いて行きましょう。 


玉井 昭先生<平成11年~平成14年>
 1999年・2000年・2001年と20世紀から21世紀にわたって三年間東商にお世話になりました。私が東商の名を知ったのは中学二年生の時だった。同じ中学校に一緒に通っていた友が家庭教師をつけ東商を目指して勉強するとのことだった。その名門である東商業高等学校に四十数年後に勤めることになった。在職中、横浜高校が甲子園に出場し、友情応援を校長さんから要請され、暑い中吹奏楽部員と一緒に甲子園球場で応援した。出場していた「平成の怪物」松坂大輔投手も2021年に引退し、松坂時代も終わった。
 今、私は八十歳半ばに近づいている。在職中、同窓会が学校創立80周年を記念し大阪城天守閣の近くに記念碑の設置と松の木三本を植樹された。その植樹に立ち会えたのが思い出として残っている。今は、卒業生の皆様が朝のラジオ体操の集合場所として利用されていると聞いている。昔、老人は引退し隠居生活を送ったそうだが今はパソコンやスマホのAIやyoutubeと対話したりしていると一日が直ぐに過つ。現役の時より国内・国際情勢に詳しくなることもある。
 卒業生の皆様が健康で過ごされますよう祈っています。


市田 淳先生<平成13年~平成14年>
◆変わりゆく商人の街「船場」
 4月初め、20年ぶりに東商跡地を訪ねました。慣れ親しんだ堺筋本町駅3号出口より徒歩3分、白亜の校舎があった辺りには地上30階建てのタワーマンションが聳え、またプール辺りには屋上駐車場を備えた大手商業施設が営業していました。建物沿いに裏に回ると東商会館の跡地には区が管理する文化教室「船場浪華会館」が建てられ、記念碑が移設されていました。当時、学校周辺に軒を連ねていた繊維商店は見当たらず、レストランや中層マンションに変わっていました。唯一学校前の「繊維会館」を見かけることができました。
  ネット社会が進行する現在、ビジネス形態が多様化し生活様式も変化していきます。正しく現在の姿なのです。これまでの船場から「いのち輝く未来社会へ」歩み始めたのでしょうか。



玉岡 照宏先生<平成19年~平成21年>
 私が退職をして、早や10 数年が過ぎました。今春の大阪の公立高校の志願者状況、とりわけ商業高校は 極めて厳しい状況になっています。また、公立高校入試の単願制を見直し、併願とすることも検討されるとか。一 層、選別・学力格差が生まれ、特色化が失われていくことが懸念されるように思われます。
 ネガティブな話はこれぐらいにして、私の趣味というか、近況を紹介します。以前にも書きましたが、デジカメをもって週に2回から3 回は写真を撮りに 出かけています。 色んな写真が沢山あります。 昨年、孫からすすめられてインスタグラム「おっさんのデジカメ街散歩」を開設して、とり貯めた写真、最近撮った写真をアップしています。 数は少ないですが、全く知らない人が「フォロ―」してくれたり、「いいね」を付けてくれたりします。見てもらえていることに、ほくそ笑んでしまいます。 もしよろしければ、皆さんも私のインスタを覗いてみてください。


小島 成起先生<平成21年~平成23年>
 令和4年3月に42年間勤めた大阪市を退職し、大阪商業大学の広報入試課にお世話になって4年目を迎えます。私の東商での思い出の1つに、大阪の商業高校が集って開催した合同販売実習「ええもんばっかり市」があります。このイベントでは、西区江戸堀三丁目の老舗「江戸三・大和屋」にご協力頂き、同店の「浪速いなり」をヒントに企画をした商品を販売し、好評を博したことです。昨年、私はこのお店のご主人から依頼を受け「食育活動」のお手伝いをすることになりました。大阪市立の小学校では「食育授業」を実施、中学生に対しては職場体験を行い、PTA協議会の行事では「親子調理体験」を行うなど「食の安心安全」に関する啓発活動にアドバイス等をさせてもらっています。
 東商で得たご縁で、今も大阪市の教育に関われることに喜びを感じています。

訃 報 山合  健一先生
post by HP管理

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