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2010/02/16

懐かしの恩師へのインタビュー 熨斗 俊男 先生

平成16年7月20日 於:東商会館
熨 斗 俊 男 先生

大正14年9月11日 生まれ。
昭和26年4月 1日 東商着任 山岳部顧問となる。
昭和37年10月1日  転任(都島工業高校)
昭和49年3月10日~5月30日 ヒマラヤ遠征登山 登頂に成功
昭和41年3月21日~4月20日 オーストリア及びフランス国立スキー学校に留学

―――こんにちは。先生、お元気そうですね。
お蔭様で。テニスをやっています。テニスのグループが3つあって、それぞれ日を変えて1週間に3回やっています。

―――病気知らずですね。
ところが、去年8月の初めに肺炎になって入院したんですよ。急に39.6°になり、もう意識不明になって救急車で運ばれてしまいました。

―――大変でしたね。 先生には在学中よく山へ連れてもらいました。でも練習はつらかったです。雨のときも休めずリュックに一杯本を詰込んで校舎の4階まで階段を登り降りしました。天気の良い日には六甲へよく行きましたね。
よく行ったね。そのお蔭で皆、東商としては高校生としての最高レベルの登山をしていたよ。剣岳の源次郎の第一峰を登って、第二峰はあんな3,000mの所で25mの絶壁をロープを使って降りて剣岳の頂上へ登れましたよ。  八峰(やつみね)の一峰から五峰までそれもロープを使って縦走しました。高校生としてはあれが限度ですね。 昭和49年3月にヒマラヤで東商生・OBを主体とした登山をやっていて、一人がクレパスに落込んだのを隊員が協力して助けたことがある。もし死んでいたら登山は中止でしたね。

―――雪渓に落込んだら夏なら万年雪に入ってしまうので上がってこないですね。こわいですね。 いまはテニス一本ですか。
 テニスと朝10kmぐらい散歩します。山が近くにあるので歩いていけます。昔も中ノ島を通って堺筋を歩いて東商まできていましたよ。  東商の体育祭が雨の為、臨時にここでやった事があり、昭和30年3月卒業の中村雄二郎君がタンブリングで梯子の上で逆立ちをやってくれましたよ。とても難しい内容でした。私も鉄棒で大車輪をやりましたね。私は大体物理だが頼まれて商品学もやりました。

(写真は熨斗先生がヒマラヤ登頂に成功されたときの様子。写っているのは同じ隊の人。)

―――当時は各自が約65kgの荷物だったので、改札が通れなく駅員さんが手を貸してくれました。石油タンクも持っていきました。ヒマラヤではどうでしたか。

ヒマラヤに行ったときは発電機のためのガソリン40リットルをネパールで買い込んで42~3日いました。先日ヒマラヤ登山30周年記念の集いに当時のメンバー11人中10人が集まり旧交を温めましたよ。何しろその為に高度な訓練を剣岳中心に何年間もやり、全員無事にクリアーしておりますから感慨も一入でしたね。    私はスキーと登山の二つの目的以外には海外に行っていません。ヨーロッパでは1ヵ月間のスキー留学をしました。オーストラリア、フランス、それから10年ぐらい前にはニュージーランドへ行きヘリコプターで頂上に上げてもらって上から滑り降りました。広く長い距離を滑らないと上手になれない事が分かりました。日本で最高のスキー場は志賀高原と思っていますが、毎年いまでもそこへ行っております。

―――立山から黒部を通り大町へ出る途中の黒部平(現在は黒部湖で水没)では、先生に「中辻スコップを持ってちょっと掘ってこい」と言われ川原に出て掘ってみると温泉が湧いてきました。
熱いので川の水を入れて温泉を作りましたね。そこはいま黒部ダムの底に沈んでいます。

―――そのころ私は体重60kgでしたから自分よりも重いものを担いでいたのですね。
半世紀前、建設中の剣山壮を見ていたらゴーリキが畳4枚を担いでいたね、一人で。100kgはあるよ。

―――重い荷物を担いで登山中は弥陀ヶ原のお花畑も見ている余裕が無い。「登山中は余りにも苦しいので二度と登山したいとは思わなくなるでしょう。」と先生もおっしゃっていました。ところが剣岳なり立山の頂上に上がると登山中の苦しさを忘れてまた来たくなるのです。

ほんまに荷物を担いでしんどい時はいややと思いますけど。

―――テニスはいつ頃始められたのですか。
 

65才からです。もう12~3年になります。スキーもまだまだやりますよ。家の用事もやりますからね。買物にも行きますよ。健康の秘訣は歩くことですよ。
10kmを2時間以内で歩きます。長距離を走った最後は明石海峡大橋です。開通1週間前に往復10kmを走りました。この9月が来たら79才になりますが、身体の年齢は50才台くらいかな。

―――先生、震災のときは大変でしたね。
私はマンションの7階にいたのですが、もうあの時は命はないかも知れんと思い、そのまま横になっていましたよ。お蔭でどうもなかった。ベッドが安全ですね。家の中はめちゃめちゃだった。陸橋は43号線の大きな陸橋、171号線の阪急今津線をまたぐ陸橋など殆どやられていましたね.2~3日したら電気が来ましたから、それでポンプアップしてもらって井戸水を上げて24時間開放されました。飲み水は知っている人が遠くから運んでくれました。良かったです。2月20日に水が来ました。ガスが3月25日だったと思う。1ヵ月間風呂に入らなかった。いやですね。

―――お名前について聞かせて下さい。
 

奈良県の当麻町の横に岩城村があってそこに熨斗家があります。もう1ヵ所は当麻町に2軒の熨斗家があります。そのどちらかの出身でしょうね。十三にも、仙台にもあります。字が難しい。慰めると言う字を書いて心ではなく、火です。

―――久しぶりに元気な先生にお会いしてびっくりしています。
お蔭さまで、もうこれだけ長生き出来るとは思わなかった。これだったら、もうちょっと生きられるだろうなと思って頑張ろうという気になっています。長生きしたお蔭で皆さんにお会い出来るのです。本当に有難いことです。


これからもお元気でお過ごし下さい。今日は暑い中を有難うございました。
インタビュアー  中辻 與和(8期 山岳部OB)
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