トップページ > 恩師・先輩インタビュー > 平成17年度インタビュー 西村 拓夫氏(新13)

2010/02/19

平成17年度インタビュー 西村 拓夫氏(新13)

やわらちゃんのお弁当!

日本料理人
西村 拓夫氏

田村亮子選手
――柔道部だったそうですね。当時の思い出や部員との交流など‥‥
 学校対抗戦や佐伯先生から受けたご指導等、いろいろありますが、何といっても入部当時の先輩方が怖かったことが印象に残っています。3年間在籍し、一応初段まで取りました。部長であった同級生の渡辺信正君が先に寿司屋を始めておられ、私がこの商売を始めるときに、お世話になり、現在も親しくしています。

――寿司・割烹のお店を営んでおられますが、何時頃から始められたのですか‥‥
 実家が惣菜店でよく手伝いもして、料理することが好きだったので、卒業前から「食の道」へ進もうと決めていました。旅館や料理店で修行をして、25歳の時に結婚と同時に現在の場所で開業しました。付近に町工場が多く、当初は仕出しが中心で、苦しかったことも多かったのですが、家内と一緒に頑張って料理の巾も広げて、現在の寿司・割烹を皆さんに喜んで頂けるようになりました。
人の口を預る料理人として、「真心を込めて」、「手抜きをしない」をモットーに努めてきたのですが、お客様から「美味しかったよ」と言って頂く幸せは何物にも換えられません。
 
――オリンピックの公式スポンサーである松下電器産業から要請を受けて、日本料理の料理人としてアテネ・オリンピックに行かれましたが‥‥
松下電器様のスポーツマーケティング室におられた井谷直樹氏からのご依頼があったのです。井谷氏は銀座の料理屋さんのご子息なのですが、私の店では10年余り前からのお客様で、前々回のシドニー・オリンピックの時にも「西村さん、シドニーへ料理を作りにきてくれないか」とのご依頼を受けたのですが、その時は都合が付かず行けなかったのです。平成15年に「アテネへ是非一緒に行きましょう」との再度のお誘いがあり、「家内を助手に」ということでお受けしました。どうして私に白羽の矢が立ったのか?はお聞きしていませんが、先程申し上げた料理人としての真心を認めて頂いたとしたらこれ以上の喜びはありません。
平成16年5月に下見のために、オランダで食材のチェックをした後、アテネに行きました。オランダのユトレヒトには日本食材料の専門問屋があり、殆どの食材が揃うことが判り、アテネでは中央市場等を見て回り、肉、魚、野菜等の豊富なことが判り、安心して帰国しました。  
8月1日に家内と共に出発、現地入り後はマンションの一室を厨房として借り切り、パナソニックのスタッフの昼食、夜食を作り始め、開会後は松下電器様が招待した各国のVIP用のパーティー料理作りも始めました。生鮮食材の調達は運転手、通訳付で、オリンピック関係者専用の道路を利用できてスムーズに行えました。また、柔道の谷亮子選手(やわらちゃん)の陣営から、試合当日のお弁当の依頼があり、「縁起の良い献立にして下さい」と言われ、金目鯛西京焼、金柑、ビフカツ、たこのやわらか煮、祝海老等を工夫して盛り付けましたが、大変喜んで下さいました。その夜、谷亮子選手は見事金メダル。大感激でした。
時間をやり繰りして見た体操競技で、小中  学校の後輩の富田選手が銀メダルを獲り、日の丸が揚がるのを見た時は鳥肌が立ち、涙が出るほど感動しました。
帰国後に多数の方から葉書やメールのお礼状を頂き、助手を務めてくれた家内と一緒に喜びを分かち合いました。

――オリンピック期間中、1ヶ月も店を閉めることに不安はありませんでしたか‥‥
一生の内の一ヶ月です。誰でも経験できることではないので不安よりもやってみたいと言う気持ちの方が強かったです。帰国後に沢山の方から「お帰りなさい」と声を掛けて頂き、お客様も増えたような気がします。

――後輩の皆さんにメッセージを‥‥
在学中はやんちゃ坊主でしたから、勉強しなさい等と偉そうなことは言えません。
私は料理の世界に生きてきて、「料理は愛情!上手下手ではない。心がこもっていると美味しいと言って頂ける」をモットーに手抜きをしないことを心掛けてきました。その気持ちが今回のような井谷さんとの出会いにつながり、貴重な経験を得ることが出来ました。
「真心を込めて」というのはどのような仕事であっても共通することかも知れませんね。

――貴重な体験談をありがとうございました。
インタビュアー 福田博忠(新6)国枝敏夫(新13)
post by ホームページ管理

コメントをどうぞ

コメントを投稿するにはログインしてください。