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2016/04/06

第49回見学会「熊川宿と三方五湖(水月湖)、myお箸づくりなど若狭の魅力ポイントめぐり」

山西 敏弘(旧25)
 平成27年10月8日(木)JR大阪城公園駅朝8時30分に、大型・中型2台のバスにて62名の参加者で出発。途中、道の駅「妹子の郷」で休憩をとり、その後若狭鯖街道熊川宿を散策。昼食は水月湖の「ホテル水月花」で新鮮な剣先いかの姿づくりなど、料理9品頂き、食後、水月湖を観光船で40分巡航しました。小浜の「せいわ箸店」で塗り箸を研磨機を使ってMYお箸づくり。その後「若狭フィシャーマンズワーフ」にて名産「焼鯖」他魚介類を買い物してJR大阪駅西口18時50分到着。 好天に恵まれ(若狭は曇天、肌寒く北国だなあと感じましたが)和気藹藹の楽しいバスツアーを満喫しました。以下各地の歴史、情報等に触れてみたいと思います。
①「妹子の郷」
この地域は遣隋使で有名な「小野妹子」(飛鳥時代の延臣607年初めて遣隋使となり609年帰国する)の出身地が大津市小野であると言われており、関係が深いことや、毎年小野妹子に関するイベントが開催されており、地域で愛されている人物であることから「妹子の郷」と命名された。
②鯖街道の由来
古代若狭は朝廷に食料を献上する御食国(みけつくに)のひとつで、若狭の海で水揚げされた魚介類が京都へ運ばれ、中でも「鯖」が主流を占めていたから「鯖街道」とよばれるようになりました。
③熊川宿の歴史
豊臣秀吉に重用され若狭の領主となった浅井長政は天正17年(1589年)に、熊川が交通と軍事に於いて重要な場所であることから、諸税免除して宿場町とした。熊川宿は鯖街道の中継点で、最盛期には1日1000頭もの牛馬が行きかったといわれる。重要伝統建造物群保存地区、歴史街道、水の郷百選、平成の名水百選に選ばれています。町を散策してみますと綺麗な清水(前川)が流れ、旧逸見勘兵衛家、熊川陣屋跡、松木神社(若狭の義民、松木庄左衛門が祀られている)妻入りの町家等見学、江戸時代にタイムスリップした感じでした。
④水月湖 奇跡の湖水月湖の年縞(ねんこう) 
年縞とは長い年月の間、湖などに堆積した土などの層が描く特徴的な縞模様の湖底堆積物のことです。三方五湖の一つである水月湖は
イ.川の水が流れ込まず山々に囲まれていることで、水や風の影響が無い。
ロ.湖底に酸素がない為生物が生息しにくい。
ハ.湖の底面が掘り下がる沈降現象が今も続いているので湖が埋まらない。
という世界的にも大変珍しい自然条件により、過去7万年にわたり途切れることなく年縞が1枚ずつきれいに積み重なっている状態が保たれています。このことにより、この水月湖の年縞は、地質学や考古学で年代を特定するための地球の歴史の「ものさし」として使われているのです。

⑤商社の伊藤忠商事
 旧逸見勘兵衛家は伊藤忠2代目社長伊藤竹之助翁の生家で熊川宿を代表する町家として、町指定の文化財である。
 伊藤竹之助は初代伊藤忠兵衛の長女ときの長女ふきの婿養子である。
 初代忠兵衛は天保13年(1842年)7月2日、近江湖東の小林八目邑(はちめむら)現在の滋賀県犬上群豊郷(とよさと)町字八目にて5代目伊藤長兵衛の次男として生まれ幼名を栄吉といった。手作り地主1~2町歩の田地を自作する地主であると同時に「紅屋」(べにや)の商号を用い、紅屋の長兵衛というところから屋号を「紅長」とも称し耳付物(繊維品)を商ういわゆる地商い(じあきない)呉服太物小売商である。
 
安政5年(1858年)幕末開港の年、満15歳を迎えた栄吉は元服した忠兵衛以時(もちとき)と名乗り字(あざな)を子愛と称した。そしてこの年5月に実家から独立して創業し、初めて持ち下り商いを開始したのであった。これが近江商人にしての初代伊藤忠兵衛の誕生である。持ち下り商いとは商品を携帯出張卸販売のことである。商域を大阪、山陽、四国、九州と拡げ、長崎へ行き初めて黒船、異国人、外国商館、外国貿易にふれる。
 文久2年9月末父の5代目長兵衛が62歳で死去。兄の萬次郎が6代目の長兵衛「紅長」の家督を相続する。明治5年(1872年)1月忠兵衛は大阪本町2丁目に出店「紅忠」と称した。当時大阪の呉服街は伏見町であったが、横堀川、川口町等水運交通の便の良い本町を重要視して船場の太閤はんといわれ、現金仕入れ現金販売とし、明治17年1月紅忠を丸紅伊藤本店と改称した。
 次男精一(2代目伊藤忠)の生誕を記念して大阪心斎橋にも出店した。そして明治36年7月8日初代忠兵衛61歳で死去。その後紅長と伊藤家事業を統合しようとする機運が伊藤竹之助主唱で、にわかにひき起こされ明治41年に創業以来の組織的大改革が三井物産をモデルとして断行されることになり「伊藤忠兵衛本部」が本店内に創設。この「本部」は忠兵衛(次男精一)忠三、竹之助を無限責任社員として三者合資によって成り、合議制としたのである。
 大正3年末、資本金200万円の伊藤忠合名会社代表社員は忠兵衛、業務執行役員忠三と竹之助と他に伊藤ときがなる。伊藤忠、丸紅は繊維会社から戦授復興景気の波に乗って丸紅が高島屋飯田(富士銀行斡旋)伊藤忠商事は安宅産業(住友銀行斡旋)を何れも合併成長する。
  地域別 部店別独立採算 物産型     
  商品別 商品本部制    商事型   
伊藤忠と丸紅がその発生史的系譜において、いわば一卵性双生児の兄弟会社であったことである。
 初代伊藤忠兵衛が遠く安政5年にスタートした呉服太物問屋紅忠を母胎に成長発展してきた。
 忠兵衛は言う「商売道の尊さは売り買い何れをも益し世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの。」信用を重んじ、自分、相手、社会の原則といった「三方よし」の商法に対する限りなき追及があった。
 現在の伊藤忠商事、丸紅は共に株式会社として1949年12月設立。株式上場は1950年7月である。
 終わりになりましたが同窓生諸賢のご健康と益々のご発展を祈っています。

  

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