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2010/02/16

懐かしの恩師へのインタビュー 都倉 義明 先生

平成13年4月7日 於:東商会館
都 倉 義 明 先生


―――青春時代
大阪の難波で育ちました。中学は今宮中学でノーベル賞受賞者の福井謙一と同級生でした。大学は、早稲田大学で昭和16年から同22年まで国文学を学びました。早稲田は、戦時中でも自由な気風が残り、憲兵・特高などの影響を受けないため屋上で鍵を掛けて授業を受けることもありました。戦時中の勉強不足のため6年間在籍しました。

―――東商業との縁
大学卒業後昭和22年より28年まで中学の教師をしておりま したが、東商への就職は、東商の校長高丸先生との料理屋での面接で決まりました。それは、校長の豪放磊落な性格によるところも大きいですが、当時の風潮と して個性とかゆとりとかが尊ばれていたことに関係し、今では考えられないことであります。そのような試験で東商に就職し定年まで勤務し、主に国語を教えて おりました。 特記すべき思い出としては、昭和30年から40年頃まで演劇部の部長として指導したことであります。そのほかに担任を交替したのは忘れません。それは昭和 31年に村上静雄先生が担任されていたクラスが、先生の手におえないのでピンチヒッターを頼まれたことです。そのクラスも何とか卒業させました。 その頃の生徒と最近の生徒との際立った違いは、昔は良かれ悪しかれ教師と生徒との間で交流があり、また授業中も私の話に反応がありました。最近は、教師が 生徒に授業 時間中以外関心を持たないとの批判がありますが、教師から見れば生徒も先生との接触 を求めようとせず、却って避けようとする姿勢が感じられ ます.昔に較べて疎遠になりました。

―――現況
定年後も元気でおりましたので、予備校とか上之宮学園・八州学園に最近まで勤務しておりました.その間に上の宮で巨人の元木選手も教えました。現在は,足が少し不自由になっておりますが、足が弱くなるまでは市川箱登羅主宰の「みおつくし歌舞伎」に演者として参加し、白波五人男の日本駄衛門であるとか寺子屋の松王丸の役を演じ,千里読売ホールであるとか豊中市民ホール等で年2回公演しておりました.今は、足の関係で退団しました。 足以外は、健康状態は良好であります。 それで、読書とテレビの毎日ですので、教え子からの年賀状とかを近況報告を楽しみにしております。是非送っていただきたい。


有り難うございました。いつまでもお元気で!またお会い出来るのを楽しみにしています。
インタビュアー  浜口 卯一(新9)
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