このページについて

 大阪女学院を卒業された会員の方々のページです。
学生時代の思い出、学校のこと今のこと、題材は自由です。ホームページ委員会で検討の上掲載させて頂きます。まずは原稿をお送り下さい。お待ちしております。

「32年前の決断は人生最高の選択だった」
   
南カリフォルニア在住 寺口麻穂さんからの投稿(全文)です。〔1982年卒(中・高)〕
 
1988年に渡米したので、アメリカ生活も32年目になりました。短大卒業後、一旦社会に出ましたが、外国に出て視野を広げたい!と言う気持ちが強くなり、アメリカ留学を決意しました。両親には一年だけという約束でしたが、結局そのままアメリカでこんなに長い年月を重ねています。
 
英語学校を卒業した後に進んだ大学で文化人類学という面白い学問と出会い、その後大学院まで進んで人類学を研究。素晴らしい教授たちにも恵まれ、学会で論文を発表できる経験もしました。10年余りに渡るサンフランシスコ・ベイエリアでの生活にピリオドを打ち、車で大陸横断してニューヨークに移住。新しい土地で自分を試してみたいという気持ちからでした。独特の個性を持つ街ニューヨークは、常に強烈なエネルギーを発していて、弱肉強食の世界。アリシア・キーズの歌にもあるように、あの街でやって行けるなら他のどこに行っても通用すると言われる通り、私自身も正に生きるためのサバイバル術を学びました。
 
東海岸に移った直後の事でした。あの悲惨な9・11同時多発テロ事件が起こったのです。あの事件をきっかけに、私の人生にも大きな転機がやって来ることに。あれだけ多くの罪もない人の命が、人生が一瞬にして変わってしまうという悲劇を目の当たりにし、心の奥底が揺れ動きました。「人生このままでいいのか?きっと私がすべき使命があるはずだ。そこに辿り着かなくては…」そんな問いを自分にぶつける毎日でした。そんなある日、一度きりの人生、一番好きなもの(犬)に携わることこそが自分の使命なのでは?と気付き、アニマル・レスキュー活動を始めました。実は、9・11事件が起こる半年前に、虐待され心身共にボロボロに傷ついた犬を引き取っていたという事もあって、世の中からこんな思いをする犬がいなくなるようにしたいと強く思い始めていたからです。
 
愛犬が保護されたアニマル・シェルターでのボランティア活動から始め、その後は、もう少し大規模なシェルターで、そこのドッグトレーナーに付いて犬の行動と心理をも徹底的に勉強しました。世界で一番好きなものに時間とエネルギーと愛を注ぐことで大きな満足感を得るようになりました。犬の里親になるためシェルターを訪れる人たちにカウンセリングやマッチングを提供する係も勤めました。マンハッタンのシェルターでは職員としてシェルターにやって来る犬達の性格判断テストを担当。それぞれの犬がどんな家庭に適しているかを探り、アダプションの成功率を良くするものです。しかし、来る日も来る日も溢れる余る数の犬たちがシェルターに捨てられてやって来る。ほぼ100%が人間の勝手な理由からです。何の罪もない犬猫たちが人間の勝手で捨てられ、行き場がないと安楽死させられてしまう…。レスキューの世界で活動する人ほぼ全ては、この世からシェルターの必要が無くなればいいと心から願っています。そんな現状に、知らず知らずのうちに心がボロボロに傷ついていました。
 
しかし、これが自分の人生の使命。一日一匹でいい、一人でいい、その犬生・人生を変える手伝いができれば良しとしようと唱え続けました。今まで習得した知識を周りと共有することがこの悲しい現実を少しでも改善する手段だろうと、犬の飼い主のために犬を学ぶクラスを開催したり、雑誌で犬の連載記事を7年余執筆し、読者の人たちと共に現実を学ぶ機会を作りました。現在は、ちょっと一休み。ボロボロに傷ついた心を癒して、再びエネルギーが沸き上がって来たらまた大好きな犬と人間の橋渡し活動に戻る予定です。
 
東海岸でそんな15年を過ごした後、スペースとゆとりを求めに二代目の愛犬と車で大陸横断をし、再びカリフォルニアに戻ってきています。今はまだ自分にエネルギーが有り余っているので、ここののんびりペースにイラっとすることもありますが、そのうちこのほんわか感が心地良くなるのだろうと…。アメリカ市民権も取得済み。真正面からアメリカで暮らそうと思ったからです。アメリカは本当に厳しい国です。日本人がイメージするアメリカからは、かなりかけ離れていると思います。留学当時、先に渡米していた人が「5年過ごしたらすっかり見方が変わるよ」と言っていましたが、その通りでした。でも、私にとってはここで得られるもの全てが大切で、32年前の決断は人生の最高の選択だったと思っています。
 
現在は、南カリフォルニアのトーランス市に所在する会社でHR Managerとして日々忙しく働いています。週末には、土曜日本語学校で教鞭を執ることもあります。色んな事に関わって、色んな人と出会って、色んな発見をするのが私の生きる糧。これも女学院で培った「前向きでオープンな価値観」と信じています。また、いつ日本に帰省しても、どんなに時が経っていても両手広げて歓迎してくれる女学院時代の友人たちは私にとって一生の宝物です。
事務局 | コメント(0)
S25年卒 髙林知子さんからの投稿です。

 
桜の美しく咲き揃った今春3月31日、新大阪駅近くの「ムラマツリサイタルホール」で私達のクラスメイト大木充枝様のスプリングコンサートが催されました。大木様はお子様の入学と共にママさんコーラスに入られ、今は女性コーラス“たまゆら”で続けられ今日に至ってられるそうです。
ご案内状の発送・プログラム作り・会場の交渉・当日の司会等すべてご自分で準備実行され、当日は全員無料でご招待くださいました。
途中の休憩を挟んで「バラの花咲く時」「愛あればこそ」シャンソンの名曲15曲を見事に美しく情感込めて歌い上げられました。
後日そのパワーの源をお尋ねしますと、「女学院で培われた精神で前向きに自分の持てる力で人に喜んでいただければ……」とおっしゃいました。
私達昭和6年(1931年)・7年(1932年)生まれは、19年(1944年)に大阪女学院高等女学校に入学。翌20年8月の終戦まで登校の途中も空襲に遭ったり、6月には戦火で全校舎が焼失した時代でした。戦後の一時期は森田院長先生を先頭に心を一つに明るく元気に焼け跡整理の奉仕を致しました。
先生方のご努力で逸早く建てられました何の飾りもない質素な講堂で毎朝全校生徒が集い行われた礼拝は何よりも懐かしく思い出されます。この講堂で行われた卒業式・謝恩会も私達の学年が最後で、翌1951年にはW.ヴォーリズ氏設計のヘールチャペルが献堂されました。世の中全体が貧しく乏しい時代に女学院で育まれました。「神を畏れ神様に愛され生きる」精神はバックボーンとなり今に連なる絆に感謝する日々でございます。
大木様は来年迎える米寿に再度リサイタルができれば……とおっしゃっています。その機会には皆様も同窓生としてご出席くだされば嬉しうございます。
 
(昭和25年(1950年)卒 髙林知子)
   






 
同窓会室 | コメント(0)
2018年11月11日に2002年卒の高校同窓会を行いました。43名の同窓生が集まりました。卒業ぶりの再会になった方もいましたが、すぐに学生時代に戻ったかのように、話が盛り上がり、大変楽しい時間を過ごすことができました。みんな、立派なアラフォー女性になっていました!三年後、卒業20周年の同窓会もしたいと思っています。今から三年後が、楽しみです。
(報告:幹事代表 本田 真麻)
2002高校卒同窓会 集合写真

先日、梅田スカイビルにて大阪女学院高校 2002年卒業生同窓会が開催されました。
私は、普段イベントMCや医学会ナレーターなどの仕事をしていることから、同級生の前で司会をさせて頂きました。幹事様からお声がかかったときは、ドキドキワクワクでしたが、無事みんなの笑顔を見ながら成功。数学担当の山本先生が東京から来られ、懐かしいお話で盛り上がりました。
3年後、高校卒業20周年同窓会が開かれる予定です。
今から楽しみ〜!ぜひまた、2002年高校卒業生メンバーで集まりましょう。
 (報告: 飯田  麻紀子)
















 
同窓会室 | コメント(0)
7月17日日曜日、ザ・リッツカールトンホテル大阪にて「大阪女学院高校1986年卒業生同窓会 ”30th anniversary”」を開催いたしました。

一次会は10名の先生がたを含め165名の方々にご参加いただき、引き続き同会場で行われた二次会にも、97名の方にご参加いただける大盛会となりました。

30年のブランクも一瞬のうちに吹き飛び、大盛り上がりで嵐のようで、夢のような素敵な時間となりました。

ご参加いただいたみなさん全員の輝きに満ちた表情に、改めて大阪女学院パワーの偉大さを実感しております。

また、これを機会に、そこかしこで小さな同窓会が勃発していることも大変うれしく感じております。

                                                (報告 大谷千鶴)

1986年卒学年同窓会(2016/07/17)

同窓会室 | コメント(1)



  初夏を思わせる快晴の下、1995年卒業の60数名が懐かしの母校に集まりまし 
  た。

  総会の後は先生方もお呼びして学年同窓会へ。数十年のブランクなんてなんの
  その、一瞬で女学院生に戻った私たちでした!!この日集まれなかった多くの
  友人たちとも女学院でつながっていることを皆で再確認し、次の同窓会は10年後、ひとりでも多くに声をかけてまた集まろうと約束を交わし、解散しました。

同窓会役員の皆さま方の計らいで、このようなかけがえのないひと時を母校で

過ごさせて頂きました。この場をお借りし、学年を代表して心よりお礼申し上げます。

                        

                                                                         学年代表 西村涼子


事務局:崔 | コメント(0)
女学院スピリット!!!
2016年3月26日土曜日
1987年卒S3Hのクラス会を、担任の織田牧夫先生をお迎えして
ウヰルミナハウスで開催しました。
卒業から29年。19名の同窓生が顔を揃えました。
卒業してからの近況報告に2時間半。
山あり谷ありの人生。子育てほぼ終了、真っ最中。
生と死の話も…
仕事してる人も、していない人も
パワーに満ち溢れていました。
女学院で学んだことは、自由には責任が伴うこと。
置かれた状況に順応し、その場で活かされること。
改めて感じた時間でした。
あっという間に高校時代にタイムスリップ。
場所を移し、2次会、3次会。
時間の許す限り、食べて、話して。
時間が足りない。まだまだしゃべりたいことはたくさんあるのに。
近いうちに女学院で再会ね。

87年卒S3Hクラス会写真
同窓会室 | コメント(0)
同窓生の皆さん、2015年12月にお届けした今年度の会報はお読みいただいたでしょうか。
「クラス会便り」(14ページ)に投稿いただいた「S37卒 河本睦子さんを囲んで」で、ハンセン病患者で詩人の塔和子さんと河本さんの交流のことが語られています。会報では紙幅制限上、原稿を要約させていただいたので、投稿全文と資料をこのホームページに掲載しています。

この河本さんのエピソードが、『隔離の記憶』(高木智子 2015年7月発行 彩流社)という本でも紹介されています。
「1959年の夏だった。キリスト教系の大阪女学院高校で、講演会が開かれていた。」と、そこから始まった塔和子さんと塔さんが“ツコちゃん”と呼んだ河本さんとの長年のかかわり。その物語が詳しくレポートされています。
S29卒の河村偕子さんと小笠原成子さんがこの情報を寄せてくださいました。ありがとうございました。


会報編集委員 島田由香
事務局 | コメント(0)
S37卒 金持登久子さんから「クラス会便り」の投稿です。
2015年度会報(12月1日発行)の「クラス会便り」では、紙幅の都合上、ご了承を得て要約したものを掲載し、寄せられた全文と写真・資料はこのホームページで掲載させていただきました。
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「ヘールチャペル」

 小宮山先生から河本睦子さんの話を是非とも聴きたいのだが、10名ほどで……との希望がよせられました。
 私達が高校1年生の時ヘールチャペルで行われた講演会は、ハンセン病患者についてのお話でした。ハンセン病の人達の療養所での生活、強制隔離、家族との悲劇、らい予防法、偏見、差別等の実態を知った河本さんは驚き憤りを覚えたそうです。講演の最後に入所者の方との文通相手を募られたのですが、名乗り出たその中の1人が河本睦子さんでした。河本さんの文通相手の「塔 和子」さんは、1999年、第29回高見順賞を受賞された詩人です。その後2011年には「塔 和子」のドキュメンタリー映画「風の舞」が上映されました。
  文通を始めた当時16歳だった河本さんに届く手紙には詩が書かれて来るようになり「詩集を出したい」という言葉が多くなったそうです。河本さんはただ塔さんが喜ぶだろうとの思いからお父さんに相談されたそうです。
 塔さんから送られてきた34編の詩を読み終えたお父さんは詩集の製作にのめり込んで行かれ心をこめて作られたそうです。そして第一詩集『はだか木』は河本睦子さん父子の協力により1961年11月3日出版されました。
 河本さんは塔さんと出会って後54年間共に歩んで来られました。(塔和子さんは2013年8月天国へ召されました) 在校時まだ柔らかい心の頃、それらの機会を作り与えてくださった大阪女学院の教育と先生方に今も感謝しています。「本当に大切なものは何か」を教えて貰い、その後の人生に「生きる大きな力」になりました。と、語ってくれました。
 河本さんのお話を聴き終えて、人は誰かに力を貰って生きていくものだから。と、ある演出家が書いていたのを思い出しました。70年の歳月を振り返り見つめれば折に触れ誰かに力を貰いながらここまで来られたのだと思うのです。その日の力はヘールチャペルの延長線上にありました。

S37卒 金持登久子



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S43年卒  田中   美知子
  
 第14回ハンドベル世界大会が8月3(火)~7日(土)、中之島の大阪国際会議場で開催されました。テーマは”Echoes for Peace”(平和の響き) 日本各地はもとより、世界12カ国からハンドベル愛好家1200名が集まり、平和を願い、祈りと讃美の楽器といわれるハンドベルの演奏に心を一つにしました。今回の大会には私は「大阪女学院ヘール会ハンドベルクワイア」としてヘール会のお母様方12名とご一緒に参加しました。これは大阪女学院中学・高校に通う保護者によって「子どもたちの在学中、保護者としての大阪女学院時代を過ごしましょう」と1990年に結成され、毎週練習をしています。
 ハンドベルは教会から生まれた楽器の性格上、大会といっても1位、2位を決めるコンクールではなく、それぞれが聞き合い、学び合い、交流するということが第一の目的とされています。大会初日には日本ハンドベル連盟理事長の日野原重明氏の「日本人の生き方と平和」と題した講演会があり、その夜には1200名がバスに乗り込み、神戸花鳥園において「ファン・ナイト」と題してバイキングによる夕食会と小さなプレゼント交換をしてご挨拶を交わしました。日本語、英語、韓国語・・・と様々な国の言葉での交流でした。
 2日目からは、最終日に行われる”ファイナルコンサート”に向けての練習開始です。各国を代表する指揮者の選曲した7曲を3カ国語の通訳のもとにすすめられていきます。
 ある日の午後です。順番がきて私たちはスコットランド民謡「アニーローリー」を演奏しました。・・・その演奏を終えたときです・・・
 一人のご婦人がわたしのところにとんできてくださいました。「私、大阪女学院の卒業生なんです。大阪女学院と聞いて嬉しくなって・・」と頬を赤らめ、満面の笑みを浮かべて私にご挨拶下さるのです。その一言で一瞬にもう心は同窓生でつながりました。そのご婦人は少し小柄で、可愛く、明るくて若々しくて素敵な方で、”西東京ハンドベルの会”に属しておられるS30年卒の岩田牧子さんでした。
 広島に原爆投下された8月6日(金)の朝には、みなで平和を祈り願う礼拝の時をもちました。また、プログラムの最後には全員で千羽鶴を折り、大会後に訪れた広島の平和記念公園での演奏ツアーチームに託しました。言葉や文化を超えた友情がハーモニーとなって響き合い、平和の響き・祈りとなって、人々の心に届いたことでしょう。
 2年前、アメリカでの世界大会では同窓生の藤村(市川)滋子さんにお会いしました。お目にかかったこともない先輩が”私も大阪女学院の卒業生よ”と話して下さるそのお顔にはお互いにその”誇りと喜び”が光り放つ瞬間でした。ベルの響きとともにつながった思いがけない出会いと喜びの時でした。2年後イギリスのリバプールで開催される大会で、また次の出会いが楽しみです。
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